信心決定しようと真剣に求めるのは間違っているのか
信心決定しようしようと求めるのは自力でだめだ。求め方が間違っていると非難する坊さんや、同行がありますが、真剣に求めるのは間違っているのでしょうか。
それならボーッとしていれば助かるのかと、そのような坊主や同行に反問してやればよろしいでしょう。
真剣に仏法を聞き、信心決定することを急ぐのが間違いだとすれば、親鸞聖人や蓮如上人の教えは、みな間違っていることになります。
なぜなら、親鸞聖人は
「たとい、大千世界にみてらん火をもすぎゆきて、仏の御名をきくひとはながく不退にかなうなり」(和讃)
この世が、たとえ火の海になっても、その中をかきわけて聞法せよ、とおっしゃっておられますし、蓮如上人も
「火の中を、わけても法は聞くべきに、雨風雪はもののかずかは」
とおっしゃっておられるからです。両聖人とも真剣に求めよ、聞けよと勧めておられます。
また、蓮如上人は
「1日も片時も急いで信心決定せよ」とか
「早く信をとれ、早く信をとれ」と『御文章』には、数えきれないほど
「早く信心決定を急げ」
と勧化なされています。真剣に求めるのが悪いのなら、このように教え勧められる親鸞聖人や蓮如上人が悪くなります。
親鸞聖人や蓮如上人のお言葉は如来の金言です。この両聖人のみ教えに反するものは浄土真宗の者でもなければ、仏教信者でもありません。
大体、真剣に聞法求信することを悪いなどという者は、他力と無力を混同している信仰の幼稚園児なのです。現今の浄土真宗にはこのような坊主や同行が多いのです。
求めることは自力だからダメだといって、自分はボーッとしているのが他力だと思っているのです。確かに真剣に求めるのは自力です。生まれた時から他力に摂取 されている者は1人もいないのですから、みんな自力で求めてゆくのです。そして聞けば聞くだけ、求めれば求めるだけ、聞き切らない必堕無間の自己に驚き、火の中突き抜けても、ここ1つはと思わずにおれなくなるのです。
そして自力間に合わなかったと、助かる望みが断ち切られて、無間のドン底へたたきおとされた時、十劫以来、呼び続けてくだされていた阿弥陀仏のみ声が、五臓六腑を貫くのです。
「ただのただもいらんただであったか、他力とは、こんな楽な世界とは知らなんだ知らなんだ」とおどり上がるのです。
自力いっぱい求めたことのない者に自力無功と知らされる筈がありません。どうにもなれない自分だと頭で合点しているのと自力間に合わなかったと知らされて地獄へたたきおとされたのとは天地の違いがあります。
自力無功を体験しない者に自力が廃ったということがありましょうか。
自力が廃った一念の体験のないものに、他力にまかせ切った妙味など、分かるはずがありません。
降っていない雨に晴れたということはありません。
全裸の人間が物を落としたということは聞いたことがありません。
ねころんでいる者にころんでケガしたということもありません。
されば無力無信心の坊主や同行にだまされずに、善知識の教えに順じて、聞いて聞いて聞き抜き、他力になるまで、他力を聞き抜きましょう。
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