承元の法難

35歳の時、親鸞聖人は住みなれた京都を追放され、越後国へ流刑に遭われました。

これを、「承元の法難」といいます。

ほかにも、恩師・法然上人は四国・土佐へ流罪。住蓮房・安楽房は死罪。隆盛を極めた吉水道場の閉鎖、念仏停止と教団解散……。日本史上最大規模の、国家権力による宗教弾圧事件に発展したのです。

法然上人が、京都東山の吉水に草庵を結ばれ、阿弥陀仏の本願を説かれるや、農民、町民、武士にいたるまで、あらゆる階層の人々が群参するようになりました。

それはしかし、既成仏教教団のねたみと反発をかう結果になりました。

当時の仏教界を牛耳っていたのは、「南都北嶺」、つまり奈良の興福寺(法相宗)と比叡山の延暦寺(天台宗)であります。

数百年の伝統と権威を誇示する延暦寺や興福寺が、「このままでは、日本じゅうが念仏宗になる」と恐れたほど、浄土仏教の発展は著しかったのです。

しかも、真実の仏法を知らされた人々は、「阿弥陀仏一仏を信じよ、阿弥陀仏以外の一切の諸仏、諸菩薩、諸神に、近寄るな、礼拝するな、信ずるな」という教えを実践し、「一向専念無量寿仏」の教えが急速に拡大したところに最大の脅威を感じたのです。

仏法上の争いは、あくまでも教義論争(法論)で決着すべきですが、仏教諸宗派との法論は、「大原問答」で、すでに決着がついていました。

教義で歯がたたなければ、あとは実力行使しかない。仏教諸宗派は、権力者を動かし、浄土仏教を弾圧しようと企てました。

比叡山延暦寺と奈良興福寺が、念仏停止を求め、何度も朝廷へ直訴状を出しています。中でも有名な直訴状は、興福寺の僧・解脱貞慶が、法然上人ら吉水教団の撲滅を願い出た「興福寺奏状」です。

内容は、以下のようなものでありました。

 「信行両座の諍論2」 「承元の法難2」

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