平成20年5月 親鸞会館ご法話参加者の声
厳しく心見つめ
滋賀県
今回親鸞会館で聞かせていただき、因果の道理は、何度お聞きしても、「もっとお聞きしたい」「分かっているようで少しも分かっていない心に、何が何でも分からせたい」という思いになります。
世間では、口と体の行いばかり問題にしますが、仏法では、その口や体を動かしている心を最も重視され、聞かせていただくほど厳しさを知らされます。
他人に言えないことばかり思い、心を問題にされたら逃げ場はありません。しかも、そのような自分を少しも危ぶむ心もありません。
「因」とは、心で思うこととお聞きし、私を含めだれもが、悪因悪果の恐ろしい運命から逃れることはできないと強く知らされました。
そんな私の心を見抜かれたうえで、信楽にしてみせるとお誓いくださった阿弥陀仏の本願を、尊く素晴らしく仰がずにおれません。
悪果以外に受けようのない者を、絶対の幸福、摂取不捨の利益に救ってくだされるからこそ、不可思議な超世の悲願とも言われます。このような教えはほかに絶対ありません。心を見つめて親鸞会館でのご法話で、聞法に身を沈めます。
人生が大転換
埼玉県
行為が運命を生み出すと、因果の道理を教えていただき、善い行いをしようと思っているうちに、私の人生は変わってしまいました。仏法を聞く前には、体験したことのない善い結果に恵まれて、喜びあふれた毎日を送っているからです。
親鸞会と出会い、人生を大転換させる真実を知らされ、そのご恩はどれだけお返ししても報いることはできません。
一方、心を見つめると、相変わらず悪を思い続けており、この結果は、死後一気に引き受けねばならないのではないか、と恐ろしく思います。
親鸞会で、親鸞聖人の教えを聞法するほどに無常も知らされます、シンプルに考えると、人生とは生きて死んでいくだけのことです。
だからこそ人生の装飾品に心奪われず、まず生死の解決をしたい、しなければ、と思っています。
私とは何か
富山県
親鸞会館では、私たちの肉体は、「私自身」ではなく、「私のもの」だから、仏教では死ぬことを「体を失う」と言うと、お聞きしました。
では、「私」とは何かというと、三世十方を貫く永遠の生命が「私」であり、三世を貫く生命を川に例えると、肉体はその水面に浮かんだ泡のようなものです。
私の時計とか車ならば、私の所有物であり、「私のもの」と思っていますが、肉体も同じように私のものであり、永遠の生命こそが「私自身」なのだと、今回とてもよく分からせていただきました。
だからこそ、今、その魂の解決をすることが人間に生まれてきた目的であり、それは現在ただ今、弥陀の大悲によって解決されるとハッキリと説き示してくだされた親鸞聖人。世界の光であると強く知らされました。
また親鸞会館のご法話に参詣したいと思います。