我も人も、阿弥陀仏の限りなき大悲の子
昨年の世相を表す漢字一字は「絆」であった。言うまでもなく3・11の大震災で多くの人々が、大事な家族や友人との関係を見直したからであろう。
当たり前だと思っていた人間関係が、実は自分にとっていかに大切なものであったか、激しく揺れる大地の中で、お互いが身にしみた。疎遠になっていた人とのつながりを確認したり、夫婦の絆を求めて、独身男女の結婚願望も高まったという。
仏教では、絆を「縁」という。
親鸞聖人に、こんなお言葉がある。
「一切の有情は皆もって、世々生々の父母兄弟なり」
“すべての生きとし生けるもの、無限に繰り返す生死のなかで、いつの世か、父母兄弟であったであろうと、懐かしく偲ばれてくる”
(歎異抄第5章)
聖人は、4歳で父君に、8歳で母君に死別されたといわれている。その忘れ得ぬ両親への憶いは、やがて命あるものすべて、犬や猫や虫けらに至るまでに広がり、果てしない生と死の輪廻の中で、ある時は父であり、また母であり、兄弟姉妹であったこともあるだろう、と述懐されているのである。
父母や兄弟といえば、身近な特定の肉親しか思えないのに、どうしてこんなことが言えるのだろうか。
考えてみると、この世の父母は2人でも、その両親にはそれぞれまた父母がいる。その祖父母にも、間違いなく父母がいたはずである。
重複を計算に入れなければだが、32代遡った父母の総数は、現在の世界の人口にも匹敵することになる。
このうちの誰一人欠けても、今の私は存在し得なかったことを思えば、「人類みな兄弟」という人口に膾炙(かいしゃ)したフレーズにも、実感がこもってくる。ところが聖人はここで、人類のみならず、「十方衆生(=大宇宙の生きとし生けるものすべて)」が皆、父母兄弟」と仰っているのである。
こうなるともはや、人智の及ぶスケールではない。これはまさに親鸞聖人が、本師本仏の阿弥陀仏の本願に救い摂られて知らされた人間観、生命観なのである。
阿弥陀仏の本願とは何か。
釈迦出世の本懐経である『大無量寿経』に、漢字36文字で、次のように説かれている。
設我得仏 十方衆生
至心信楽 欲生我国
乃至十念
若不生者 不取正覚
唯除五逆 誹謗正法
大宇宙最高の仏・阿弥陀仏は、五劫に思惟なされて、十方衆生は一人の例外もなく五逆・謗法(※1)・闡提の者であると見抜かれている。
こんな苦しいのなら生まれてこなければよかったと親を恨み、邪魔者扱いするのが五逆罪。仏法を聞こうともせず、聞いても善知識をおろそかに思っているのが謗法罪。
これらは『末灯鈔』に、
「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。
親をそしる者をば五逆の者と申すなり」
親鸞聖人が厳しく誡めていられる重罪である。
※1……五逆罪・謗法罪とは
それだけではない。
無常も罪悪もピンともカンとも感じない。えぇ、あの人が死んだのかと驚いて一時は同情の涙を流しても、俺は当分死にはせぬとケロッとして、後生とも菩提とも思わず、せせら笑っている心を闡提という。
こんな罪悪深重の我々を弥陀は、「必ず信楽(絶対の幸福)に救う」と命懸けで誓われているのだ。
そして、すべての人を助けるためならどんな苦労もいとわぬと、兆載永劫のご修行の末に成就してくだされたのが、南無阿弥陀仏の名号(※2)なのである。
※2……南無阿弥陀仏の名号とは
弥陀は今この時も、逆謗・闡提の我々に、南無阿弥陀仏の大功徳を与えて助けようと、全力を尽くされている。
「逆謗も闡提もみな 大悲の子」
三世の諸仏が見捨てて逃げた逆謗の屍の私(※3)を、阿弥陀仏だけが、「見捨てることのできぬ我が子よ」と、限りない慈悲を注いでくださっているのである。
さればこそ聖人は『歎異抄』に、次はこう仰る。
「いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり」
“されば誰彼を問わず、次の生に、仏になって助けあわねばならない”
と。
仏になるのは死んだ後だが、今生ただ今、仏になれる身(絶対の幸福)に救われて、差別なき弥陀の大悲を誰彼かまわず、縁ある人からお伝えしなければならないのである。
私たちは誰彼を問わず広く縁を求め、親鸞聖人のお言葉を伝えて、ひたすら弥陀の大悲を届けたい。
「物を言え、物を言え。信不信ともに、ただ物を言え」
「かたく会合の座中において、信心の沙汰をすべきものなり」
(蓮如上人)
仏法讃嘆(※4)の花咲かせ、今年も親鸞学徒は無量光明土に向かって、ただまっしぐら、無上道を進ませていただくのみである。
※4……仏法讃嘆とは
我も人も、弥陀の限りなき大悲の子として。