仏法は聴聞に極まる
阿弥陀仏は四十八の本願を建てられているが、すべての人を相手に誓われたのは十八、十九、二十の三願だけである。その三願に、「真実の願」と「方便の願」があると親鸞聖人は断言されている。
「真実の願」とは、弥陀が本心を約束なされた十八願であり、「どんな人も必ず絶対の幸福に助ける」という誓願である。
どうすれば、この十八願に救われるのか。
阿弥陀仏のお弟子であるお釈迦さまは、それを「聞其名号」と教えられ、「聞く一つで救う」お約束と明らかにされている。「聞く一つ」で完成する弥陀の救いだから、肝要は、聞法なのである。
その弥陀の本願を聞く要諦を、釈迦は『大無量寿経』に次のように説かれている。
「設い大火有りて、三千大千世界に充満せんに、要ず当にこれを過ぎてこの経法を聞き、歓喜信楽し、受持読誦し、如説に修行すべし」
(たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも、その中、弥陀の本願を聞く人は、必ず絶対の幸福に救い摂られるのである)
親鸞聖人も全く同様に、
「たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり」
と和讃され、蓮如上人も、「火の中を分けても法は聞くべきに、雨風雪は、もののかずかは」と教え継がれている。「阿弥陀仏の本願を真剣に聞け」のお勧めは一貫して変わらない。
ところが、「いたずらに過ぐる月日は多けれど 法を求むる時ぞ少なき」といわれるように、1年365日、聞法の縁は何日あろう。1日参詣しても、法が聞けるのはどれだけあろうか。しかも聞法中、心は散り乱れ、とんでもないことが思われ、考えてはならぬことが浮かんでくる。真剣な時は、わずかしかないと知らされる。
そんな我々に、今宵とも知れぬ無常が迫っている。死ねばどうなるのか、行き先は真っ暗がりだ。この後生の解決を求める用心は、一刻としておろそかにはできない。
どうしても聞法のご縁のない時、心のままにやりたい放題、悪に向かって自由奔放であってよいはずがない。
その方角を阿弥陀仏が示されたのが、十九願方便(善の勧め)であり、二十願の念仏であるから、どうしても聞けない時は、朝夕の勤行はもちろん、日々、光に向かう生活即仏法でなければならぬのは当然であろう。
この心がけを寸時も忘れず、身も心も、聴聞一つに打ち込むのだ。
「いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり。只仏法は聴聞に極まることなり」 (蓮如上人)