仏法は聴聞に極まる
弥陀の18願(真)の救いは、「聞其名号」であるから「聞」で決する。
「聞」は、「弥陀の呼び声」を聞く「聞即信」の「聞」である。
「聞く」一つで決定する弥陀の救いだから、肝要は聞法であることは歴然だ。
ゆえに、『大無量寿経』に釈迦が説かれていることを、親鸞聖人は、
「たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなうなり」
(浄土和讃)
蓮如上人は、
「火の中を 分けても法は聞くべきに 雨風雪は もののかずかは」
「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし、世間の隙をあけて法を聞くべき様に思う事浅ましきことなり」
(御一代記聞書)
いずれも真剣に、ただ「弥陀の呼び声」を「聞」けとのお勧めであることは明らかだ。
ところが、悲しきかな我々は、
「いたずらに 過ぐる月日は 多けれど 法を求むる 時ぞ少なき」
仏縁少なき流転の存在である。
聞法の時よりも徒らに暮らす時間がずーっと多い、どこどこまでも仏法聞き難き我々なのだ。
1年365日あるといっても何日、聞法の縁があるだろう。1日恵まれたとしても24時間中、一心に法が聞ける時間はどれだけあろうか。
聞法中も心は散り乱れ、思ってもいないことが思われ、考えてもいないことが思い浮かんでくる。一大事の後生どれだけ心にかけて聞いている時があるだろうか。まさに「法を求むる時ぞ少なき」に違いなかろう。
だが、今晩とも知れぬ後生の一大事を抱えている我々だ。どうしても聞法の縁が無く心ならずも無意味に過ごす多い月日を、どう生きればよいのだろう。どんな心の用心が良いのだろうか。
心のままにやりたい放題、悪に向かって自由奔放であって良いのか。朝晩の勤行もやってもやらなくても同じなのだろうか。真摯な親鸞学徒なら是非知りたいことだろう。
その方角を阿弥陀仏が示されたのが19願(仮)であり20願(仮)である。その弥陀の願意を釈迦が明らかになされたのが、観無量寿経・阿弥陀経の教えだ。正しい弥陀の仏意は、釈迦に聴かねば絶対に知ることはできないのである。
「弥陀の呼び声」を聞く(真)聞即信の一念まで、釈迦の教えをきくのを「聴」(仮)という。それは「弥陀の呼び声」を聞くまでの善知識方の教導を聴くことである。
これを、親鸞聖人は『教行信証』に、
「願海に就きて、真有り仮有り」
と説き、
「真(18願)・仮(19願・20願)を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」
と開顕され、蓮如上人は、
「至りて堅きは石なり、至りて軟かなるは水なり、水よく石を穿つ。―乃至―いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり。只仏法は聴聞に極まることなり」
(御一代記聞書)
と明快に教えられている。
「ただ仏法は聴聞に極まる」のである。