最尊無上の弥陀の慈悲
「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものを憐れみ愛しみ育むなり」(『歎異抄』4章)
「慈悲」といっても、「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」の二つある。耳目を驚かす、親鸞聖人の宣言である。
「聖道の慈悲」とは、飢餓や病気、借金、人間関係などの苦悩を除き、金や物などを施して喜ばせる「人間の慈悲」である。これは当然なすべき善行だが、情けないことに、我々の慈悲は続かない。大震災直後は深い同情と悲しみに包まれ、多大な志が各地から寄せられたが、あれほどの救済心が、はや半年で薄れてはいないだろうか。わが子には惜しみなく与えても、自分と縁遠い人にそこまでできないのは、我利我利で自己中心の表れだろう。しかも先が見えないから、しばしば善意が裏目に出る。子供を溺愛し、何でも買い与えたばかりに、後悔に泣く親は数知れない。かかる人間の慈悲では、真の人助けはできないことを、親鸞聖人は「しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし」と仰っている。
それに対し「浄土の慈悲」とは、十方衆生を絶対の幸福に救い摂る弥陀の慈悲であり、4章でそれを「浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益するをいう」と書かれている。
この「急ぎ仏になりて」を、文字どおり「急いで仏になって」と解釈する者ばかりである。親鸞聖人は一貫して、仏になるのは死後と教えられているから、それでは死に急ぐのが浄土の慈悲になる。そんな無茶苦茶は『教行信証』はじめ、どこにも説かれていない。
親鸞聖人が90年のご生涯、「急げ」と教え続けられたのは「信心決定」であり、必ず仏になれる「正定聚」の身に今、救われることである。
「急ぎ仏になりて」とは、「急ぎ仏になれる身になりて」であり、「早く弥陀に救われて」の意であることは明白だ。
親鸞聖人が「現生十種の益」の9番目に、「常行大悲」と教えられているように、弥陀に救い摂られたならば、この世から大慈大悲に動かされ、常に弥陀の慈悲を伝えて思う存分、衆生済度せずにおれなくなる。29歳で信心決定なされてから、お亡くなりになるまでの聖人の大活躍は、まさに浄土の慈悲の実践といえよう。
財は一代の宝、法は末代の宝。全人類を永遠の幸福に救う弥陀の慈悲を伝える以上の、尊い慈悲はない。困窮する人には、物資を与えなければ弥陀の大悲を伝えられないから、聖道の慈悲が仏教で勧められるのは当然だが、1億円の寄付より桁違いの布施行が、弥陀の大悲を伝える「法施」である。それは人間にできる最高善だと、4章でも親鸞聖人は説示されているのである。