五劫思惟は誰のため
「夫れ十悪・五逆の罪人も(乃至)空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば(乃至)弥陀にかぎりて『われひとり助けん』という超世の大願を発して」(御文章)
「大宇宙の一切の仏方から『救い難き者』と見捨てられた我々である。そんな者を阿弥陀如来という諸仏の本師本仏がお一人、『私が助けよう』と立ち上がられ崇高な超世の誓いをかかげられた」
阿弥陀仏の本願は、どんな者のために建てられたのか。仏眼からご覧になった人間の実相を、蓮如上人が平易に教えられたお言葉である。
だが諸仏があきれて逃げた、極悪人が自分だと思えるだろうか。
そんな自覚が少しでもあるような者なら、見捨てられはしなかったのだ。
諸仏の徹見がまことか、無関係と撥(は)ねつける者がまことか。
映れる己が醜いのを鏡のせいにして、鏡を割る愚を犯してはいないだろうか。
自惚れて黒を白と思い込む、わが身知らずな私たちを、弥陀お一人が「救わずばおかぬ」と奮い立ってくだされたのである。
そんな偉大な本師本仏の阿弥陀仏でも、我ら十方衆生(すべての人)の救済には、不可思議兆載永劫のご苦労が必要だった。
金輪際、助からぬ自覚もなければ、助かりたい心もない悪業煩悩の塊を、どうしたら助けることができるか。
そのご計画に、五劫という気の遠くなる期間かかられている。
親鸞聖人は、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄)
そこまでご苦心いただかねば、救われない親鸞であった、弥陀の五劫の思惟はひとえに私一人のためだったと喜ばれている。
いくら素晴らしい設計図があっても、莫大な費用と労力がそろわねば、立派な建物は完成しない。
我々を救う準備を完了されるのに、弥陀は兆載永劫のご修行をされている。
計り知れぬ悪業(若干の業)を持つ我々を救うには、どうしても五兆の願行が必要だったのである。
どうすれば十方衆生を十八願「無碍の一道」まで誘導できるか、最深の熟慮の末に弥陀が建てられた十九、二十願を「方便の願」と親鸞聖人は言われる。
その方便を「要らぬ」「遠回り」とうそぶく者たちは、五劫思惟より近道をあみ出した、弥陀に助けていただく必要のないド偉いお方なのだろう。
我々親鸞学徒は、弥陀の願意を親鸞聖人が微塵の計らいも入れず開顕なされた三願転入のご教導を、決して踏み外してはならない。
「こうなった」の体験談は、みえみえの自己宣伝 親鸞学徒は本道のみを往く