苦海の人生を乗せて必ず渡す阿弥陀仏の救助の大船
生死の苦海に大船あり
「生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀(みだ)弘誓(ぐぜい)の船のみぞ
乗せてかならずわたしける」 (高僧和讃)
苦が色を変え形を変え、絶えずやってくる人生を、「生死(しょうじ)の苦海」と親鸞聖人は言われる。
「この坂を越えたなら、しあわせが待っている」と誰もが信じて生きている。借金や病気、試験など、何を「この坂」と思っているかは各人各様だが、共通するのは、坂を越えたら幸福があると思っている信心である。
だが実際は、どうだろう。目前の坂を上ってみると、さらなる急坂がそびえたっている。
「越えなばと 思いし峰に きてみれば なお行く先は 山路なりけり」
幾つもの坂を乗り越えても、さらにまた奮起して乗り越えても、同じことの繰り返しに驚く。終わりなきこの苦しみを、「流転輪廻(るてんりんね)」と仏教でいわれている。
果てしない過去から流転輪廻を重ね、生死の苦海に溺れさいなまれている私たちを、「久しく沈めるわれら」と親鸞聖人は喝破されている。だが無始昿劫(こうごう)より回り続けながらも人々は、それが自分とは毛頭思えず、「この坂さえ」の迷信に沈んでいるのである。あまりにも迷いの深い私たちだから、大宇宙の仏方から見捨てられたのだ。
そんな私たちだからこそ、阿弥陀仏は「われひとり助けん」と立ち上がってくださったのだと、蓮如上人は
「諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫・五障(ごしょう)三従(さんしょう)の女人をば弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という超世の大願を発して」
と『御文章』に明示されている。
「弥陀にかぎりて」とあるように、阿弥陀仏のみが、大宇宙に2つとない希有の大誓願を発されたのである。これを親鸞聖人は「弥陀弘誓の船のみぞ」と、助かる道は2つも3つもない、弥陀の弘誓だけぞと明言されているのだ。
苦海に溺れる私たちを、必ず乗せて渡す救助の大船の厳存を教えられ、この船に乗ること一つが、万人共通の人生の目的だと親鸞聖人は教えられているのである。
そんな船のあることを、67億人の中でどれだけ知っている人があるだろう。無論、知りもしない船に、乗れることなどあろうはずもない。弥陀の本願を知らないほど、不憫な一生があるだろうか。
たとえ流転の実相に気づいても、仏法が聞けなければ絶望して自殺するか、アキラメて惰性で生きるしかないだろう。
今、仏縁に恵まれたということは、ただ事ではないことが知らされる。
「おめでとう」程度の、軽いものではない。極めて有り難い、絶対無いことが有ったのだから、仏縁は「有り難い」と言わねばならないと、
「『宿善(しゅくぜん)めでたし』と云うはわろし、御一流には『宿善有り難し』と申すがよく候」
と蓮如上人は諭されている。
親鸞聖人が「遠く宿縁を慶べ」と仰った、遠い過去からの阿弥陀仏の強縁に深く感謝して、一座一座、真剣に聞かせていただくことが大切なのである。
「遇(たまたま)行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(教行信証総序)