自力とは何か
ある新興宗教の者が、こんなことを言っていた。
「うちの先祖は真宗だが、寺では他力だからとあまり掃除もしない。こっちの宗教は、掃除、身の回りや身だしなみをきれいにして、徳を積むことを教えている。だから真宗からこっちに変えた」
何と情けない話だろう。
親鸞聖人の教えは他力だからと善の勧めを疎かにし、掃除さえもろくにしない寺が、門徒に愛想を尽かされて新興宗教へと迷っているのだ。
親鸞聖人のみ教えは「捨自帰他」(自力を捨てて他力に帰せよ)以外にない。
「自力を捨てよ、捨てようとする心も自力だから捨てよ」と徹底して厳しいのは、自力を捨てなければ、阿弥陀仏の本願力(他力)に帰することは絶対不可能だからである。
現今の浄土真宗は、捨てよと教えられるこの自力を、努力する行為そのものと誤解しているから、
「親鸞聖人に善の勧めはない」
「自力は捨て物ではないか」
「頭燃を灸うが如く努めてみても、雑毒雑修の善ではないか」
「そんな善を勧める必要がどこにある」
「善を勧めるのは大間違いだ」
と、やりたい放題、したい放題、言いたい放題。
外道よりもあさましい生きざまをさらしてきたから、親鸞聖人の教えは悪人製造の宗教だとそしられ、冒頭のような惨状にまで至らしめたのである。
無気力で、消極的、退嬰的な「善を勧めぬ浄土真宗」は、かくて崩落の一途を驀進しているのだが、当人たちは一向にその真因が分からず目が覚めない。
捨てなければ助からぬ自力とは何か、全く分かっていないところにあるのである。
後生助かろうとする心を捨てよ
自力とは、「後生助かろうとする心」をいうのだ。
だから「自力を捨てよ」とは、「善を捨てよ」「善をするな」ということでは絶対なく、「善で後生助かろうとする心」を捨てよ、ということである。
因果の道理は宇宙の真理。善因善果、悪因悪果、自因自果は、仏さまでも曲げることはできない。
もし、人間の努力そのものが自力なら、自力が廃って他力に帰すれば、全く努力しない人間になることになる。そんな馬鹿なことが、どうして考えられようか。
親鸞聖人の救われてからの大活躍を見よ。
世界の名著『教行信証』のご執筆は、一切経を何度も読破する努力なくしてありえただろうか。
法友との三大諍論も、弥陀の救いを明らかにするための聖人の決死の精進努力の表れではないか。
信行両座の諍論で、同じく信の座に入った法友で親鸞聖人と比較できる人があるだろうか。
聖人の努力は際立っておられる。
「自力を捨てよ」は「努力するな」「善を捨てよ」ということでは絶対なく、「それで後生助かろうとする心を捨てよ」ということなのである。