弥陀の方便なくして真実へは入れぬ
「念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ」
(親鸞聖人)
〝念仏によって仏のさとりをひらく、これが真実の仏法である。それまで誘導する方便の教えが、他の仏教である〟
このお言葉を、「念仏を称えていれば死んだら仏だ。善は捨てものだから、やる必要がない」と誤解している人が非常に多い。
親鸞聖人の教えを破壊する謬見(びゅうけん:間違った考え)である。
ここで、念仏と言われているのは、阿弥陀仏の本願念仏のことである。
本師本仏の阿弥陀仏は、すべての人(十方衆生)を、一生造悪で、善のかけらもない者と見て取られ、「どんな人も、我にまかせよ。必ず絶対の幸福に救い摂り、浄土で仏にしてみせる」と自らの本心を十八願に約束なされている。
我々の究極の目的は、浄土で仏のさとりをひらくこと(成仏)だが、それは、この世で弥陀に救い摂られ、仏になる身(正定聚、絶対の幸福)になっている人だけのこと。
「念仏を称えてさえいれば、だれでも死んだら仏」ではないのだ。死んで仏になれるか否かは、現在、弥陀に救われ、仏になる身になっているか、どうかで決するのである。
この十八願の救いを親鸞聖人は「念仏成仏」と言われ、「これ真宗」弥陀の真実であると断言されているのである。
では、「万行諸善これ仮門」とはどういうことであろうか。
阿弥陀仏は、十方衆生を真実の十八願で救うために、十方衆生を相手に、十九、二十の方便願を建てられている。十八願だけで救えるのなら、弥陀が方便二願を建てられるはずがないのだ。十八願の誓いを果たすために、絶対必要不可欠な方便だったのである。
その十九願で十方衆生に「修諸功徳」と、万行諸善を勧められた弥陀の願意を、釈迦が生涯説き明かされたのが、七千余巻の一切経となったのである。
それを親鸞聖人は、
「八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり」(一念多念証文)
〝釈迦一代の教えは、弥陀の方便(十九願)の善である〟と、ズバリ喝破されている。
方便からしか、真実へは入れない。必ず十方衆生が通らなければならない道程だから、要門とか仮門と言われているのだ。
「一生造悪の我々に、善を勧めるのは矛盾だ」と仏智を疑い、「十九願は捨てもの。十八願だけでいい」「弥陀・釈迦の方便は、俺には必要ない」とうそぶく。
顛倒している者は、真っすぐ立っている者が、顛倒しているとしか見えないのである。
凡夫で分かる弥陀の救いなら、親鸞聖人は「不可称・不可説・不可思議」とは仰るはずがなかろう。
「おおよそ大信海を案ずれば、
─乃至─
ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり」 (教行信証信巻)