龍樹菩薩と弥陀の本願
「難行の陸路の苦しきことを顕示し、
易行の水道の楽しきことを信楽せしめたもう」
(親鸞聖人『正信偈』)
仏教に難易二道あると開顕されたのが龍樹菩薩である。性根の据わらぬ求道者が、諸の煩悩が見えて恐ろしく、久しくかかるようで心配し、堕ちるのでなかろうかと不安になり、龍樹菩薩に尋ねた。
「諸久堕(しょくだ)の三難で進めません。もっと近道はないでしょうか」
軟心の菩薩(仏法を軽く見ている求道者)の泣き言に、龍樹菩薩は大喝一声、
「たわけ者、仏道を求めるのは大宇宙を持ち上げるより重いのだ。後生の一大事、解決せんとする者の口にすることではない」と叱り飛ばしている。
これは決して、2000年前の遠い国の話ではない。覚悟の定まらぬ者は誰なのか。龍樹菩薩は、私を叱咤されているのである。
自分は一体、何を求め成就しようとしているのか、静かに振り返らねばならない。家一軒、建てるのに、皆どれだけ苦労していることか。一生かかって建てられればよいほうで、果たせぬ人が多いのだ。たとえマイホームの夢がかなっても、マッチ1本で灰になるシャボン玉のような幸せであり、臨終には置いていかなければならぬものばかり。
われら親鸞学徒の求めているものは、そんな50年や100年の苦労や、3千万、5千万の金で手に入るものではなかろう。無始より迷い続けてきた魂の解決である。
だが欲や怒り、愚痴いっぱいで煩悩の塊の我々の力で、そんな一大事が果たされようか。己の無能を痛感させられた軟心の菩薩に、龍樹菩薩は他力不思議を宣説されている。
「どうしても真剣になれないなら、仏法にも無量の門がある。世間の道にも難あり易あり。自力の修行は、徒歩で山を越え谷を渡るようなもの。そんな陸路は難しいが、水道の乗船は楽しい。阿弥陀仏の本願は水道のごとしである」
すべての人間を「煩悩具足の凡夫」と見抜かれて“そのまま救う”と誓われた弥陀の本願のみが、私たちの救われる道である。
その弥陀の救いを開示された龍樹菩薩の教えを、親鸞聖人は『正信偈』にそのまま引用されている。
「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時必定に入る、ただ能く常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」
“弥陀の本願を憶念し他力の信心を獲得する一念で、浄土往生は決定し無碍の一道(必定)に救い摂られる。それからの念仏は御恩報謝である”
「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ ※1)」「信心正因 称名報恩(※2)」の教えは、決して親鸞の独断ではない、かの小釈迦といわれる龍樹菩薩の教説なのだよ、と仰っているのである。
※1…生きている時に阿弥陀仏の本願に救い摂られ、いつ死んでも弥陀の浄土へ往き、弥陀同体の仏になれる身になること。
※2…信心正因とは、信心一つで助かるということ。称名報恩とは、称える念仏は弥陀に救われたお礼の言葉ということ。