万人の知りたい苦悩の根元
なぜ人生は苦しいのか。古今東西、最も知りたいことでしょう。釈迦が2600年前、「人生は苦なり」と看破された実相は、今日も変わりません。
地震で家族も財産も奪われた人、病気やリストラで職を失う人、「まさか、こんなことになるとは」の嘆きは満ちています。一切の移りゆくこの世で、何もかも思いどおりになるはずがありません。自分だけは災害に遭わず、一家健康で仕事も順調、そんな都合のよい期待は裏切られてしまいます。
「まさか」の連続が人生です。
政治も経済も、科学も医学も、何とか人類の苦悩をなくそうとしてきました。確かに生活は便利になりましたが、苦しみは少しも減っていません。
今はスマートフォン1台で通話に精算、撮影、道案内、何でもできます。ですが格段に便利になった分、格段に幸せになったと、誰が感じているでしょうか。「スマホ依存」や「ながら運転」など、社会問題の種になっています。
新たな技術が登場しても、左肩の重荷を右肩に移すのと同じで、別の苦しみが始まります。まるで円形トラックを周回するように、苦悩に終わりはありません。これでは、苦しむために生まれたようなものでしょう。
誰もが知りたい苦悩の根元を、親鸞聖人は簡明に断言されています。
「生死輪転の家に還来することは決するに、疑情をもって所止となす」
(『正信偈』)
「生死輪転」とは、苦悩に満ちた迷いの世界で、生まれては死にを重ねていることをいいます。「還来」は迷いの家々を行きつ戻りつ、苦から一歩も離れられないことです。その原因に二も三もないことを「決するに」と強調し、ズバリ「疑情」一つと断定されています。
「疑情」とは、「阿弥陀仏の誓願を疑っている心」だけをいいます。儲け話に誘う者を「詐欺師では」と警戒したり、大安売りの商品を「これ本物か?」と怪しむような、人や物を疑う心は疑情とは言われません。
あらゆる仏の師である弥陀は、苦海に沈む私たちを、一念の瞬間に大船に乗せ「必ず浄土へ往ける身」に救うと、命を懸けて誓われています。この最尊の弥陀の誓願を、初めから素直に聞ける人はいません。真剣に聞法し後生が問題になるほど、「本当に私も救われるのか」という疑いは深くなります。このしぶとい疑情こそ、我々を幾億兆年にわたり苦しめてきた、そして今からも永久に迷わせ続ける元凶なのです。
弥陀の救いは聞く一つ。
「本願まことだった」と聞き開き、疑情の晴れた一念に、無上の幸福に救われます。多生の目的を果たすチャンスは、今しかありません。
この一座の聴聞に、永遠の浮沈が懸かっているのです。
(R6.3.1)