親鸞聖人の最も教えられたかった肝要

親鸞聖人のみ教えの肝要は、阿弥陀仏の一念の救いです。弥陀は「どんな極悪人も、一念の瞬間に絶対の幸福に救い摂る」と誓われています。この想像を絶する弥陀の誓願(お約束)に助けていただくことこそ、人生の目的であり、聞法の決勝点です。
われらの出世本懐を、聖人は『歎異抄』冒頭に、こう明言されています。

「『弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり』と信じて『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」(『歎異抄』第1章)

「弥陀の救いは死んでから」の迷妄を切り捨て、平生に「助けて頂いた」という一念のあることを、「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」と鮮明にされています。

不可思議の願力に救われたら、どうなるか。次に「往生をば遂ぐるなり」と教えられています。命終われば極楽浄土に往って生まれられると、定まったことです。それを「信じて」とは、ツユチリほどの疑いもなくなったことをいいます。

「信じている」とは、世間では「疑っていない」状態と思われています。しかし何かを信じるのは、不確実でハッキリしない時です。例えば明日の天気を正確に知ることはできませんから、たとえ予報が降水確率90%でも、「明日は雨だと信じている」としか言えません。ですが夕立にあってずぶ濡れの人が、「雨が降っていると信じている」などと言うはずがないでしょう。明白で信じる必要がないからです。

疑う余地のない時は、「知っている」といいます。『歎異抄』の「信じて」も、「信知して」ということであり、「まことだったと知らされて」ということなのです。

いつ死んでも浄土に往けるに間違いなしとハッキリしたことを、「往生をば遂ぐるなりと信じて」と言われ、その往生一定の変わらぬ大安心を、「摂取不捨の利益」と言い換えられています。

ではその絶対の幸福に、いつなれるのか。「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき」と明かされています。念仏称えようと思いたつ心の起きた一念に、無上の幸せに生かされるのです。この心一つが地獄と極楽の分水嶺ですから、こんな大問題はありません。

しかし念仏の称え心は色々です。墓場で思わず魔除けに称える念仏もあれば、俳優が台本にあるから称える念仏もありましょう。『歎異抄』の「念仏申さんと思いたつ心」とは、「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じた心であり、本願まことだったと知らされた心なのです。

弥陀の命懸けの誓願に疑い晴れる一念まで聞き抜いて、往生一定の大安心で最も輝く人生にいたしましょう。

(R5.10.1)

 

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