二千畳で何を聞くのか
「二千畳で何を聞くのですか?」と問われたら、「本当の自分の姿を聞くのですよ」と答えればよいでしょう。
釈迦は「仏教は法鏡なり」と言われています。法とは真実であり、仏教は、真実の自己を映し出す鏡なのです。
仏教なんか自分とは関係ないと誤解する人がありますが、一番大事な「私自身」のことが教えられているのです。ですから仏教を聞けば、法鏡に映った自己の本当の姿が知らされてくるのです。
「何年も仏教を聞いた」と言っても、自分というものが知らされなければ、鏡に向かって目をつむっているか、鏡だけを見て己を見ていないからでしょう。
法鏡に照らし抜かれた真実の自己を、親鸞聖人はこう告白されています。
是非しらず 邪正もわかぬ この身なり
小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり
(慚愧和讃)
善悪も正邪も弁えず、慈悲の欠片(かけら)もない親鸞でありながら、名誉と利益を求め、人の上に立ちたい心で一杯だ、と仰います。
あの大著『教行信証』を著され、浄土真宗を明らかにされた親鸞さまが、善悪も分からぬとは信じられない、と誰もが耳を疑うでしょう。
また、「努力して名誉や利益を求めて何が悪いのだ」と非難する向きもあるでしょう。
誰もが、「名誉や利益を得るのは、他人を幸せにするためだ。上に立つのも皆のためだ」と思って努力します。そこには、「自分には他人を幸せにする慈悲の心がある」というのが前提になっています。
ところが親鸞聖人は、「小さな慈悲さえもない私であった」と言われるのです。褒められたい、儲けたい、自分のことしか考えていない情けない親鸞だ、と悲痛な懺悔をなさっています。
こんな箸にも棒にもかからぬ極悪人と照らし抜かれたと同時に、親鸞聖人は、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ
大慈大悲の阿弥陀仏が、五劫の永きにわたって熟慮を重ね、お誓いくだされた本願は、こんな悪業の塊の親鸞一人のためであった、と『歎異抄』に感泣なされています。
「善悪くらいは心得ている」「小さな慈悲なら持っている」と自惚れて、不可称・不可説・不可思議の弥陀の本願を疑い計らっている自力の心は、極悪の私がそのまま無上の幸福に摂取された一念に、浄尽します。
二千畳は、真実の自己を知らされ、「弥陀の本願は、こんな私一人のためだった」と聞きひらくための法城なのです。
(R5.2.1)