「聞く一つ」で救う弥陀の本願
阿弥陀仏は、「すべての人を、必ず信楽(無上の幸福)に救う」と本願に誓われています。
ではどうすれば救われるのでしょうか。
仏の心を知るものは仏のさとりを得たもののみですから、弥陀の正意は、地上では釈迦に尋ねるより道はありません。
釈迦は、仏教の至極である「本願成就文」に「聞其名号 信心歓喜」と仰り、「名号を聞く一つで救う」本願であると明示されています。
名号とは、「南無阿弥陀仏」のことです。弥陀の本願に救い摂られるとは、聞く一念に南無阿弥陀仏を獲得して、浄土往生間違いない無上の幸福になったことをいいます。
それを蓮如上人は、『御文章』にこう教えられています。
他力の信心を取るというも別の事にはあらず。「南無阿弥陀仏」の六の字の意を、よく知りたるをもって信心決定すとはいうなり。そもそも信心の体というは、『経』にいわく、「聞其名号・信心歓喜」といえり
(御文章5帖目11通)
釈迦は、弥陀の本願を聞く心構えを、こう説かれています。
設い大火有りて、三千大千世界に充満せんに、要ず当にこれを過ぎてこの経法を聞くべし
(大無量寿経・下巻)
この釈迦の金言を、親鸞聖人は、平易にこう言われます。
たとい大千世界に みてらん火をも過ぎゆきて 仏の御名を聞く人は ながく不退にかなうなり
(浄土和讃)
たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも、それを突破して弥陀の本願(名号)を聞く人は、必ず無上の幸福に救われる、と仰せです。
蓮如上人も重く受け継がれ、世間の仕事を「世間の隙」と評されています。
仏法には、世間の隙を闕きて聞くべし、世間の隙をあけて法を聞くべき様に思う事、浅ましきことなり
(御一代記聞書)
世間の仕事をやめて聞かねばならぬのが仏法である。仕事の合間に聞けばよいと思うのは、仏法が正しく理解されていないからだ。深く反省しなければならない、と。
「仕事こそ人生」と思う人が多いでしょうが、どれだけ打ち込んでも、仕事には「これで満足」ということはありません。また、どんな大仕事も、臨終になると、全てが夢幻のようなものであったなぁと消えていきます。
人生の目的は「人間に生まれてよかった」の大満足であり、それは仏法を聞いて弥陀の救いにあう以外にないのです。ならば、世間の仕事は仏法を聞く手段となりましょう。
「仕事は世間の隙」とキッパリ言い切られる蓮如上人に、感嘆のほかはありません。
仏法は聴聞に極まる。
後生の一大事を心にかけて、真剣に本願を聞く以外に、弥陀の救いはないのです。
(R4.12.1)