人に依らず、法に依れ
臨終の迫ったお釈迦さまは、悲しみに暮れる弟子たちに、「人に依らず、法に依れ」と厳しく遺言なされています。
「人」は、いつどうなるか分かりません。日本では、70歳を超えた半数がガンを発症し、高齢者の7人に1人が認知症になるといわれています。親鸞聖人が「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」と仰せのように、縁さえあれば、どんなことでもするのが我々の実態です。
交通事故に遭うかもしれませんし、加害者になる可能性もあります。犯罪に手を染めたり、自ら命を絶つかもしれない。過ちを犯さぬ完璧な人間など、いるはずがないのです。
そして最後は必ず、死んでいかなければなりません。大聖釈迦牟尼世尊も、80歳で入滅なされました。逃れがたきは無常です。
どんな人を信じようと、無常の身ですから、裏切られる結末は避けられません。
それに対し、仏教に説かれる「法」は、いつでもどこでも変わらぬ、永遠の真理です。昔は正しいと信じられていたことでも、科学の発達で否定されたことは、「法」とはいわれません。また憲法や法律のように、国や時代によって変化するものも「法」ではありません。
釈迦の教えられた「法」は、世の中がどれだけ変わろうと、地の果てまで行こうと間違いのない、永久に輝く真実です。ですから釈迦が滅して2000年を経るとも、その教法は時空を超え、綿々と受け継がれ今日に至ります。
我々は、「人」についていくのではなく、「教法」を聞き、「教え」に従わなければなりません。これが釈迦の遺言であり、仏教の規範なのです。
この仏意を遵守された親鸞聖人は、常に仰せでした。
「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法を、われも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
聖人が「珍らしき法」と仰ったのは、他の人からは聞けない、その人独自の変わった話です。
「私は、こうして救われた」という体験談は、その典型です。生々しい話であるほど、皆の関心を引き、一時の人集めになりますが、そんな体験記は善知識方には一切、見られません。
今日、親鸞聖人が尊崇されるのは、ご自身のことは全く語られず、「世界の光」である「釈迦如来の教法」を伝える一つに生き抜かれたからです。
聖人が流刑の苦難も乗り越え、弁円の剣をくぐり、長子善鸞を義絶されてまで、身命を賭して真実を開顕してくださったなればこそ、私たちの幸福があります。
今こそわれら親鸞学徒は、教えを真剣に聞き、末代まで伝えなければなりません。人類永遠の救済だからです。