決定のある信心と決定のない信心
「皆々信心決定あれかし」
これ以外、善知識方(本当の仏教の先生)が望んでいられることはありません。私たちの生きる目的は、信心決定だからです。
親鸞聖人が90年の生涯、ただ一つ教えられた「信心」には、「決定」ということがあります。どの宗教でも「信心せよ」と言いますが、「信心決定せよ」とは言いません。
世間でいう「信心」は、自分の心で神や仏を信じ、ゴリヤクを祈願することです。ですが人間の心は変わり通しですから、そんな不実な心で信ずる信心は、続きません。やがて必ず崩れる信心です。これで「信心が完成した」ということは、ありえないのです。
聖人の説かれた、決定のある信心は、それらと根本的に異なる「他力の信心」です。
では「他力の信心」とは何でしょうか。それを知るには、親鸞聖人の教えられる「自力の信心」と言われるものの特徴を知らねばなりません。聖人の「自力の信心」は、阿弥陀仏の本願を聞いて初めて出てくる信心です。
阿弥陀仏が「どんな人も必ず絶対の幸福に助ける」と、命を懸けて誓われたお約束を、弥陀の本願といいます。そんな凄い誓願を、最初から素直に聞ける人は一人もいません。
「私のような者でも、本当に救われるのだろうか」という疑いが、必ず起きるのです。
「お釈迦さまは生涯、弥陀の本願一つを説かれたのだから、きっと真実だろう」と、信じようとするのですが、信じ切れず、疑心が無くなりません。このように本願を疑いながらも、自分の心で信じようとしている信心を「自力の信心」といいます。
この信心も、自分の知恵や経験で信じ固めたものですから、求道が妨げられると動揺し、完成はありません。
それに対し「他力の信心」は、「弥陀の本願まことだった」とハッキリした(決定した)信心であり、本願に対する疑心が永久に無くなった、鮮明不動の信心です。
仏法を聞き始めの時は、誰しも本願を疑っている「自力の信心」ですが、弥陀のお誓いどおり絶対の幸福に救われた一念に、本願に対する疑いが晴れます。本願に露塵ほどの疑心もなくなった心を、「他力の信心」といいます。
この他力の信心について蓮如上人は、
「信心といえる二字をば『まことのこころ』と訓めるなり」
と仰り、それは「まことの心」だと教えられています。
すべての人間は煩悩の塊であり、そらごと・たわごとばかりで、「まことの心」はカケラもありません。他力の信心は、弥陀より「まことの心」を頂いた信心なのです。
弥陀の仏心(まことの心)を一念で賜ったことを、信心決定といいます。他力の信心には、水際だって完成した、決定した、という時があります。人として生まれてきた目的が完成、成就するまで、聴聞の一本道を、ともに励まし、ともに進みましょう。