『歎異抄』の謎を解くキーワード3
『歎異抄』の比類なき名文は、もろ刃の剣で誤解されやすく、蓮如上人は封印された。むべなるかな一章は冒頭から、最も難解である。
「『弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり』と信じて『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」(一章)
文頭に「弥陀の誓願不思議」とあっても、何が不思議か分からなければ、後は読めないだろう。
〝誓願不思議であった〟と知らされるのは、弥陀の誓いどおり絶対の幸福に救われた時である。
この永遠の幸福を『歎異抄』では「摂取不捨の利益」と言われている。
だから「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」とは、不思議な弥陀の誓願に救われ、摂取不捨の利益にあずかったことである。これは現世(この世)で頂く利益だから「現益」という。
続く「往生をば遂ぐるなりと信じて」は、死ねば必ず弥陀の浄土へ往けるとハッキリしたことであり、浄土往生は当来(死後)の利益だから「当益」といわれる。
このように弥陀から「現当二益」を賜るのはいつか。それを次に
「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」と明かされている。
〝「念仏称えよう」と思いたつ心のおこるとき〟だから、まだ一度も念仏を称えない前であることは明白だ。
しかし、親鸞研究の第一人者と認められた東大教授でさえ、ここを「念仏を称えたとき」と誤読。高校の教科書に〝ただ一度の念仏で極楽往生できると説いたのが親鸞〟
と記し、大問題を起こしたのである。
三とおりの念仏 〜親鸞聖人の卓見〜
聖人の教えは漢字四字で「唯信独達」、信心一つの救いであることは明らかではないか。
投書で非難が続出すると、教授は自説を撤回、教科書も改訂された。学者トップがこの有様だから、「念仏称えたら誰でも極楽に往生できる」という迷妄は世を覆っている。
しかし、涙にも悲し涙、うれし涙、悔し涙などあるように、念仏を称える心は各人各様だ。
親鸞聖人は念仏を、称え心によって三とおりに分けられた。これは聖人が初めてなされた卓見である。
「諸善より勝れているのが念仏」ぐらいに思っている「万行随一の念仏」と、「諸善とはケタ違いに勝れた大善根」と信じ専ら称える「万行超過の念仏」を、「自力の念仏」と総括されている。
それとは違って、弥陀に救われたうれしさに、称えずにおれない「自然法爾の念仏」を、聖人は「他力の念仏」と判別された。
『歎異抄』に頻出する「念仏」は、すべて他力だから、峻別された聖人の真意を酌まねば、深い謎に迷い込んでしまう。
その不審を解くキーワード「念仏」の違い目を詳説する、ただ一冊の『歎異抄をひらく』が歎異抄解説の決定版といわれるのも当然であろう。