親鸞聖人が名号を本尊とされた根拠は何か
浄土真宗の正しい御本尊は、木像や絵像ではなく名号であることを、親鸞聖人は、何を根拠に教えられているのでしょうか。
親鸞聖人ご自身、生涯、名号のみを本尊とせられています。また弟子や同朋たちにもお勧めになったという事実は、種々の記録によって明らかです。
本尊なおもって『観経』所説の十三定善の第八の像観より出でたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながちに御庶幾御依用にあらず。
天親論主の礼拝門の論文、すなわち「帰命尽十方無碍光如来」をもって真宗の御本尊とあがめましましき (改邪鈔)
“親鸞聖人は、生涯、木像や絵像を本尊とされず、名号を御本尊となされた”
これは、親鸞聖人が木像や絵像を本尊となされず、名号のみを真宗の御本尊となされたという、覚如上人のお言葉です。
そのほか、『慕帰絵詞』の中に、
他の本尊をばもちいず、無碍光如来の名号ばかりをかけて、一心に念仏せられけるとぞ (慕帰絵詞)
“親鸞聖人は、絵像・木像を本尊とされず、名号ばかりを掛けて御本尊となされた”
と記されていることでも明白です。
また、『弁述名体鈔』の中に存覚上人(※1)も、
みな弥陀一仏の尊号なり (弁述名体鈔)
“親鸞聖人の礼拝された御本尊は、みな南無阿弥陀仏の名号であった”
と、その事実を裏付けておられます。
何よりも明らかなことは、聖人ご真筆の名号が幾体も現存しているということです。
これら、ご真筆の名号には、蓮台を描き「愚禿親鸞敬信尊号」と明記され、裏書には「方便法身尊号」とありますから、聖人ご自身が本尊として、敬信なされていたことは明らかです。
それはただ聖人のみではなく、直弟子たちにも御本尊として授与されたことも推測されます。
しかもこのように、木像や絵像本尊を排して名号本尊となされたのは、親鸞聖人が最初であったのです。
これは決して、時代背景とか、住居の影響とかというような、枝葉末節の問題で聖人がなされたものでは断じてないのです。
親鸞聖人が名号を本尊となされたのは、実に、仏教の至極である釈尊の「本願成就文」(※2)の「聞其名号」の教えによってなされたことであったのです。
「本願成就文」の教えは、弥陀の本願の極意であり、釈迦出世の本懐であり、宗の淵源であり、凡夫往生の枢要であり、実に浄土真宗の肝腑(※3)・骨目の教えだと親鸞聖人は讃仰されているからです。
その「本願成就文」には、「名号を聞信(※4)する一念で絶対の幸福に救われる」と説き明かされています。それゆえに親鸞聖人は、それまで各寺院などで本尊とされていた、弥陀三尊の絵図(※5)などをすべて撤廃されて、ただ名号を本尊となされたのです。
この聖人の教えを無我に相承(※6)なされた蓮如上人は、浄土真宗の正しい本尊は、名号であることを、次のように鮮明に教えられています。
他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり (御一代記聞書)
“真実の弥陀の救いを知らない人たちは、名号よりも絵像(絵に描いた阿弥陀仏)がよい、絵像よりも木像本尊が有り難く拝めるからよいと言っている。
だが親鸞聖人は、木像より絵像、絵像よりも名号が浄土真宗の正しい御本尊であると教えられている”
他宗の木像や絵像本尊と比較して、浄土真宗の本尊は、南無阿弥陀仏の名号であることを明快に教示されています。
私たちの根本に尊ぶべき、最も大事な御本尊ですから、両聖人の教えに従い進ませて頂きましょう。
※1存覚上人……覚如上人の長子。
※2本願成就文……釈迦が、阿弥陀仏の本願の真意を分かりやすく解説されたもの。
※3淵源、枢要、肝腑……いずれも、「これ以上大事なものはない」ことを表す言葉。
※4聞信……「まことだった」と聞いて知らされること。
※5弥陀三尊の絵図……阿弥陀仏を中心に、左右に観音・勢至の菩薩が描かれている絵像。
※6無我に相承……私見を交えず、そのまま伝えること。