絶対の幸福になる唯一の道
蓮如上人の『御文章』を拝読しますと「信心をもって本とする」とか、「一日も片時も急いで信心決定せよ」とおっしゃっていますが、どうすれば早く信心獲得できるのか教えてください。
釈尊出世の本懐経である『大無量寿経』には、次のように説かれています。
設い大火有りて三千大千世界に充満せんに、要ず当にこれを過ぎてこの経法を聞き、歓喜信楽し、受持読誦し、如説に修行すべし(大無量寿経)
これを親鸞聖人は、分かりやすく、
たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏の御名を聞く人は
ながく不退にかなうなり(浄土和讃)
“たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも、そのなか阿弥陀仏の名号(仏法)を聞く人は、早く絶対の幸福になれるのである”
蓮如上人は、それを、
「火の中を 分けても法は 聞くべきに 雨風雪は もののかずかは」
「仏法には世間の隙(仕事)を闕きて(止めて)聞くべし、世間の隙をあけて法を聞くべきように思うこと、浅ましきことなり」
と、聴聞に極まるとおっしゃっています。
先徳にある人が、「ご面倒ですが一言聞かせてください」と言ったら、大喝一声、
「何を言うか、凡夫が仏になるほどの一大事を一口や二口で聞かせられようか。自力の修行なさる人々は、無量永劫の修行されても証られぬと嘆かれているのに、一年や二年、聴聞して仏になろうという横着者だから救われぬのじゃ。命がけで聞けよ、別のことを聞くのじゃない。同じことを聞き聞きすると聞こえてくださるのじゃ」
と言われています。
いずれも、真剣な聴聞をお勧めになっているのは、それだけ後生は一大事だからです。
ところが私たちは、夏に一匹の蚊に襲撃されたほどにも思っていません。一匹の蚊でも気になって眠れないのに、後生の一大事が苦になって眠れなかったということがないのです。なぜ、でしょう。
原因は、まだ死なないと無常を遠くに眺めているのと、自己の罪悪の重さに気がついていないからです。
親鸞聖人が七高僧と言われる中の一人であります道綽禅師の『安楽集』に、こんな例えが説かれています。
「たとえば、人有りて空曠のはるかなる処に於て、怨賊の刀を抜き勇をふるいて直に来りて殺さんと欲するに値遇す。この人、ただちに走るに一つの河を度らんとするを視る。未だ河に到るに及ばざるに、すなわちこの念を作さく。
『我、河の岸に至らば衣を脱ぎて渡るとやせん、衣を著けて浮かぶとやせん、若し衣を脱ぎて渡らんには唯恐らくは暇なからん。若し、衣を著けて浮かばんには、また首領全くし難からんことを畏る』と。そのとき、但一心に河を渡る方便をなすことのみありて、余の心想間雑することなきがごとし。
行者もまたしかなり。阿弥陀仏を念ずる時、また彼の人の渡ることのみを念じて、念々相次いで、余の心想間雑することなきがごとし」
殺そうとして、旅人の後ろから剣を抜いて追いかけてくる怨賊とは、激しい無常の風をたとえられたものです。
必死に逃げる旅人の前方に、怒濤逆巻く大河が現れて進めない。そこで旅人の心は迷う。着物を脱いで渡ろうか、着たままで飛び込もうかと大混乱。
着物を脱いで渡ろうとすると、帯が堅く締まっていてなかなか解けず、迫っている危機に間に合わない。着たまま河に飛び込めば、泳げないから溺れ死ぬだけである。
帯が堅く締まって着物が脱げないとは、重い罪悪に苦しんでいることをたとえられたものです。
こんな急迫に震える旅人のように、無常と罪悪にせめたてられて仏法を聞きなさいと、教えられた道綽禅師の例えです。
こんな人が、居眠りしておれましょうか。ほかのことを考えてはいられません。
これを蓮如上人は、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり(白骨の章)
“誰の人も、早く後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏の救いに値い、仏恩報謝(※)の念仏する身になってもらいたい”
とおっしゃっているのです。
※仏恩報謝 阿弥陀仏のご恩に報いること。