救われたら、本当に大慶喜があるのか
親鸞聖人が、阿弥陀仏に救われたら大慶喜が起きると教えられているとおっしゃいますが、それは法の尊さを言われたもので、私たちに起きる喜びではないという人がありますが、どちらが本当なのでしょうか。
救われて大慶喜した人が、広大難思の慶心が起きると言われるのも本当ならば、大慶喜のない人が、そんなものではないと言うのも本当でしょう。
しかし、いま問題にされているのは、親鸞聖人のおっしゃった広大難思の慶心について、どちらが正しいかというお尋ねでありますから、親鸞聖人にお聞きしなければなりません。
このことについては、『唯信鈔文意』に聖人が詳述されています。
この信心をうるを「慶喜」という。慶喜する人は諸仏とひとしき人と名づく。
「慶」はうべきことをえて後に慶ぶ意なり、信心をえて後によろこぶこころなり。
「喜」はこころの内に常によろこぶこころ絶えずして憶念つねなるなり、踊躍するなり、「踊」は天におどるという、「躍」は地におどるという、よろこぶ心の極まりなきかたちをあらわすなり (唯信鈔文意)
“他力の信心を獲たことを「慶喜」というのである。「慶喜」する人は諸仏と等しいといわれる。
慶とは、いま救われたことのよろこびをいうのである。
喜は、常によろこぶ心が絶えないことをいう。天に踊り地に躍るほどのよろこびをいうのである”
慶喜は、歓喜とは違って未来の救いを喜ぶのではなく、今、救われたことのよろこびを表すものであり、慶喜も慶心も私たちのよろこびを表すことは、この聖人のお言葉で明らかでありましょう。
数ある釈尊のお弟子の中でも、智恵第一と謳われた舎利弗尊者が、『法華経』の説法を聞いて、有り難さをありのままに告白した時、釈尊は、「これより百千劫の後、そなたは華光如来という仏になるであろう」と予言されました。
それを聞いた舎利弗は、よろこんで八万大衆の中で、立って踊って歓喜したと、経典に記されています。舎利弗ほどの人が百千劫の将来、仏になるといわれてさえも思わず立って踊られたのです。
悪性更に止めがたい私たちが、臨終夕べの暁に弥陀同体(※)になれる身に定まった喜びは、到底、筆舌に尽くせるものではないでしょう。それを親鸞聖人は、
広大難思の慶心 (『教行信証』信巻)
“広く大きく想像絶する喜びである”
とか、
獲信見敬大慶喜 (正信偈)
“弥陀に救われて、大慶喜する”
とか、
ここを以て、極悪深重の衆生、大慶喜心を得、諸の聖尊の重愛を獲るなり
(『教行信証』信巻)
“弥陀に救われて極重の悪人が大慶喜を獲て、諸仏や菩薩に褒められ護られる身になるのである”
無上の信心を獲れば、すなわち大慶喜を得(浄土文類聚鈔)
“弥陀から無上の信心を頂けば、大慶喜するのである”
とおっしゃっているのです。
では、大慶喜心がない原因はなにか。『教行信証化身土巻』に、こう指摘されています。
真に知んぬ。専修にして而して雑心なる者は大慶喜心を獲ず
(『教行信証』化身土巻)
“明らかに知らされた。弥陀一仏に向かって一心に念仏を称えていても、不思議な弥陀の救いに値っていないから大慶喜心が起きないのである”
念仏は称えていても、まだ無明の闇が晴れず心が曇っているから、大慶喜心が起きないのであると聖人はおっしゃっています。
よろこばないのを懺悔するのは尊いのですが、よろこべないのを当たりまえのように思うのは、仏法を汚していることになりますから心しなければなりません。
※弥陀同体 阿弥陀仏と同じ仏の覚りのこと。