なぜ死骸を魚に与えよと言われたのか
親鸞聖人は、「私が死んだら、賀茂川へ捨てて魚に与えよ」とおっしゃって、お亡くなりになったと聞きましたが、なぜ、そんなことをおっしゃったのでしょうか。
お聞きの通り、親鸞聖人は、つねに「私が死んだら、賀茂川へ捨てて魚に食べさせよ」とおっしゃっていたことが、『改邪鈔』という書物に記されています。
世間一般では、盛大な葬式や法事、立派な墓を造ることに力を入れて死後の幸福を祈っていますので、なんとも不可解な聖人のお言葉と思われるでしょう。
この親鸞聖人のお言葉は、種々に推察できるでしょうが、覚如上人が教えられていますように、肉体の葬式に力を入れずに、魂の葬式、すなわち、信心獲得に最も心掛けよということです。
親鸞聖人は、平生、弥陀に救われた時が、魂の臨終であり葬式であると教えられた方です。
それを覚如上人は、
平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし(執持鈔)
“平生に、善知識(※1)の教えに従って、一念の弥陀の救いに値った時が、この世の終わり臨終である”
とおっしゃっています。
されば信心獲得した人は、もう、葬式が終わっているのです。だから後の、セミのぬけがらのような肉体の葬式などは、問題でないのです。
「つまらんことに力を入れて、大事な魂の解決を忘れてはなりませんよ」と、最後まで、真実の教えを叫び続けてゆかれた聖人のお言葉なのです。
次に、考えられる聖人の御心は、「生前に多くの生命を奪い、その肉を食べてきた。中でも多く食べてきたのは魚である。いかに生きるためとはいいながら、まことに済まんことであった。せめて死後なりとも、この肉体を魚に食べてもらおう」という、因果の道理の深信からのお言葉と拝します。
また「幸いに私は、仏凡一体(※2)、南無阿弥陀仏と一体にさせて頂いた。南無阿弥陀仏に染まった肉体を食べて仏縁(※3)を結び、次の生、人間界に生まれて弥陀の本願を聞いてもらいたい。せめてもこれが、罪悪深重の最後の願いである」という御心も、あったのではなかろうかと愚考します。
それにつけても、葬式や法事や墓番を任務のように心得ている仏教界に、親鸞聖人のこのお言葉を、よくよく伝えなければなりません。真実の仏法を知らされた者から、真実の教えを伝えてゆきましょう。
※1)善知識…仏教を正しく教える人。
※2)仏凡一体…阿弥陀仏の御心(仏心)と凡夫の心(凡心)とが、一つになること。
※3)仏縁…阿弥陀仏との因縁。