後生の一大事が問題にならねば、「雑行」は絶対に分からない (1/6)
「浄土真宗に善の勧めはない」という主張がある。
それに対し、浄土真宗親鸞会は、一貫して「親鸞聖人の教えに善の勧めはある」と主張してきた。
ところが、その親鸞会を「善をすれば助かるという諸行往生だ」と非難する者がいるのである。
《非難》
蓮如上人も「雑行(ぞうぎょう)を捨てよ」とは、書かれているが「信仰が進むから、善をしなさい」とは、書いておられないのではないか。
だから、善を勧める親鸞会は間違いであり、善をすれば助かるという諸行往生だ。
「雑行雑修自力の心のある間は、絶対に阿弥陀仏の無上の救済には値えない」と説き続ける親鸞会に対し、「親鸞会が善を勧めるのは、善をすれば助かるという諸行往生だ」との非難である。
甚だしい事実誤認であり、無知である。あるいは、ためにする誹謗であろう。
そのことを、親鸞会の会員が集って行われた信心の沙汰から明らかにしたい。
親鸞会の講師:「蓮如上人も『雑行を捨てよ』とは書かれているが、『信仰が進むから善をしなさい』とどこに勧められているか」と言ってきたら、「では、『信仰が進むから悪をしなさい』と書かれていますか。
『善をするな、やめよ』とどこにおっしゃっていますか」と、ズバッと言えばいいでしょう。
親鸞学徒(親鸞会の会員):「善をするな、やめよ」などとは、親鸞聖人も、蓮如上人も、どこにもおっしゃっていませんからね。
講師:お釈迦さまは45年間、因果の道理を説かれて、「善いことをしなさい」と教えられています。その善の勧めを否定しているのですから、そのようなことを言うのは仏法者でも親鸞学徒でもありません。因果の道理に外れた教えを説く外道と言わざるをえないでしょう。
ここで、「雑行」とは何か、よく知らねばなりませんね。お聖教(※1)のどこにありますか。
※1:お聖教(しょうぎょう)・・・仏教の本のこと。
学徒:毎日、朝晩の勤行(※2)で拝読する蓮如上人の「聖人一流の章」
に、「もろもろの雑行をなげすてて」と書かれています。
※2:勤行(ごんぎょう)・・・親鸞聖人の『正信偈』と、蓮如上人の『御文章』を拝読すること。
詳しくは、『聖人一流章』の拝読を|親鸞学徒の勤行 を参照。
学徒:同じく蓮如上人の『領解文』には、「もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて」とあります。
学徒:『御文章』には、何カ所も「雑行をすてよ」とおっしゃっています。書かれていない『御文章』はないほどですね。(文末のまとめを参照)
講師:そうですね。親鸞聖人のお言葉ではどうでしょう。
学徒:『教行信証』に、
「愚禿釈(ぐとくしゃく)の鸞(らん)、
建仁(けんにん)辛酉(かのとのとり)の暦、雑行を棄てて、本願に帰す」
とおっしゃっています。
講師:親鸞聖人の教えを知るには、「雑行」という言葉がキーワードであることがよく分かります。
ところが、現在の浄土真宗では、「雑行」とは何かを知っている人がいません。雑行とは、ひと言で言うと、どういうことですか?
学徒:「自力の心でやる諸善万行」と教えていただいています。
講師:「自力の心」とは?
学徒:親鸞聖人は『末灯鈔(まっとうしょう)』に、
「身・口・意の乱心を繕い、めでとうしなして浄土へ往生せんと思うを自力と申すなり」
とおっしゃっています。
「浄土へ往生しようと、身・口・意を善くしようとするのを自力の心という」
というご教示です。
学徒:言い換えれば、「後生の一大事どうすれば助かるのか」「どうすれば真剣になれるのか」「どうすれば自力の心がすたるのか」ということですね。
講師:その自力の心を捨てよ、とおっしゃるのです。善を勧められているのが仏教ですから、「雑行を捨てよ」とは、「善をするな」という意味のはずがありません。自分のやった善で後生の一大事を助かろうとしている“心”を捨てよ、ということなのです。
※3:後生の一大事・・・生死の一大事ともいう。永久の苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、の一大事をいう。