Q.親鸞聖人とはどんな方だったのでしょうか。
A.親鸞聖人は約800年前、京都にお生まれになっておられます。お父様は藤原有範といい、お母様は吉光御前といわれました。
ところが四つの時にお父さんが、八つの時にはお母さんが亡くなりました。
〝次に死ぬのは俺の番だ。死んだらどうなるのだろうか〟
真剣に考え込まれた親鸞聖人は、真っ暗な我が身の後生に驚かれました。何とかこの後生一つ明るくなりたいと、9歳で出家されて20年間、比叡の山で法華経の修行に打ち込まれました。
大曼の難行までやりとげられましたが、どうにも後生暗い魂の解決ができず、泣き泣き山を下りられたのは、親鸞聖人29歳の春でした。
どこかに、この暗い後生の解決を教えて下されるお方はないのかと、京都の町を夢遊病者のようにさまよっておられた時、四条の大橋で、かつての比叡山でのお友達・聖覚法印様とバッタリ出会われたのです。その聖覚法印様に誘われて、吉水の法然上人から親鸞聖人は、真実の仏教、阿弥陀如来の本願をきかれるようになったのです。
そして29歳の御時、阿弥陀如来の本願によって後生明るい心に救い摂られました。
このように弥陀に救い摂られたことを信心決定と言います。
信心決定なされた親鸞聖人は、こんな極悪の親鸞を助けて下された阿弥陀如来の大恩は、身を粉にしても骨を砕いても足りないと、弥陀の本願唯一つ、90歳でお亡くなりになるまで叫び続けてゆかれました。その御一生は、波乱万丈の激しいものでした。
31歳では、僧侶には堅く禁じられていた結婚をなされて、世間中から、戒律を破った坊主じゃ、気チガイじゃ、仏教を破壊する悪魔だ、と八方総攻撃を受けられました。
しかし、すべての人がありのままの姿で救われるのが真実の仏教であることを身をもって明らかにするために、厳然として断行されました。
34歳の時には、友達の弥陀の本願の聞き誤りを正さんが為に、大きな争いを三回もなされています。今日、親鸞聖人の三大じょう論と言われています。弥陀の本願一つを正しく伝えるためには、法友といえども、親鸞聖人はその誤りを打ち破られたのであります。
35歳の時には、仏教の結論である「一向専念無量寿仏」を、あまりにも強く叫ばれたために、神信心の権力者の怒りに触れ、新潟県へ流刑になっておられます。最初は死刑だったのですが、関白九条兼実公のはからいで越後流刑になったのです。
新潟県上越で5年間、ご苦労なされた親鸞聖人は、そのあと関東へ赴かれ、茨城県の稲田という所を中心に、60歳過ぎまでの20年間、ただひたすらに布教活動に命をかけられました。
その間、雪をしとねに石を枕に、仏法嫌いな日野左衛門に仏法を伝えられたり、剣をかざして殺しにきた山伏弁円にも、「御同朋、御同行」と親しく、親鸞聖人は弥陀の本願を説かれたことは、今に有名な語りぐさとなっています。
還暦過ぎて親鸞聖人は、ようやく生まれ故郷の京都へお帰りになられました。
ところが84歳の聖人に、ご長男の善鸞を勘当せねばならぬという、またまた悲しい事件が起きました。関東に残してきた長男の善鸞が、こともあろうに仏法をねじ曲げていることを知らされたからです。親鸞聖人は何回も諌めの手紙を出されましたが、善鸞は少しも改めようとはしませんでした。我が子のために多くの人を地獄へ墜とすことはできないと、ついに親子の縁を切ってまで弥陀の本願を正しく伝えて下されたのです。
このようなご苦労をなされて親鸞聖人が、教えてゆかれたこととはどんなことだったのか、今から高森先生より真剣に聞かせて頂きましょう。