無碍の一道に出でよ
『歎異抄』第七章の仰せ
人生の目的とは何か?哲学者は、いろいろなことを言っていますが?
人生の目的について、「ない」という人もいれば、「人それぞれ」という哲学者もいます。
「人それぞれ」というのは、真の人生の目的を知らず、目標を、目的と誤解しているのです。
人生の目的と目標には、大きな違いがあります。
人生の目標は、人それぞれであり、完成ということがありません。その喜びは続かず、やがて色あせ、人生の終末には総崩れになってしまいます。
しかし、人生の目的は、万人共通唯一で、完成があるものであり、色あせることがありません。
この全人類が探し求めている人生の目的を、親鸞聖人は「無碍の一道」
と、ズバリ7章で教えられています。
たった一つの、絶対自由な世界です。
念仏者とは、どんな人のことでしょうか?
みんな「南無阿弥陀仏」と称えているすべての人と思うでしょうが、間違いです。
称え心によって、念仏に三通りあると、親鸞聖人は教えられています。
化学的には塩分と水分、同じ涙でも、「うれし涙」もあれば、「悲し涙」「悔し涙」、心はいろいろあるように、同じ「南無阿弥陀仏」と称えていても、「念仏も善の一つ」ぐらいに思っている人(万行随一の念仏)もあれば、「念仏はずば抜けた善だ」と信じて専ら称えている人(万行超過の念仏)もあるのです。
親鸞聖人は、これらの心で称えている人を自力の念仏者と総括されています。
だが『歎異抄』7章の念仏者は、今、阿弥陀仏の本願に救われ、無碍の一道に生かされたうれしさに、称えずにおれぬ他力の念仏者(自然法爾の念仏)のことです。
それはすぐあとに、「信心の行者」と言い換えられていることでも、明らかです。
このように、念仏にも三通りあることを明らかにせられたのは、親鸞聖人が初めです。
無碍の一道とは、どんな世界ですか?
「そのいわれ如何とならば」から以降が、そのことが教えられているのです。
「信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし」と、親鸞聖人はおっしゃっています。
天神地祇とは、天地の神々のこと。ここでいう神とは、キリスト教の天地創造の神
(ゴッド)でもなければ、日本神道でいう人間や畜生の霊魂を神としているものでもありません。
仏法を守護する神々のことです。
それらの神々は、念仏者の尊さがよく分かりますから敬伏する、と言われているのです。
みな、神には頭を下げるものだと思っていますが、親鸞聖人は、「そうではない。神に敬伏される身になりなさい」とおっしゃっています。
ただし、天地の神々に敬伏される身になっても、すべての人が念仏者を尊敬する、ということではありません。
ここは誤解されやすいところです。念仏者の尊さの分からない迷った人々は、逆に非難攻撃するのです。
それは、29歳で念仏者になられた聖人が、終生、非難中傷の渦中にあったことを知れば、明らかでしょう。
ご和讃にも、
「道俗ともにあらそいて 念仏信ずる人をみて 疑謗破滅さかりなり」
と言われています。