現代人には、信心などいらないのではないか
私は高校生ですが、なぜ信心など必要なのか分かりません。そんな古くさいことを親鸞聖人は教えられたのですか。必要な理由を教えてください。
信心など古くさい、なぜ必要なのかとおっしゃいますが、私たちは、何かを信じなければ生きてゆけないからです。信心とは何かを信ずることです。言葉をかえれば、頼りにする、あて力にするということです。
私たちは、何かを頼りにし、あて力にしなければ生きてはゆけません。何かを信じなければ生きてゆけないのです。
妻は夫を信じ、夫は妻を信じ、親は子供を頼りにし、子供は親をあて力にして生きております。その他、自分の体や生命、金銭や財産、名誉や社会的地位など、何かをあて力にして人間は生きております。
生きるとは信ずることなのです。だから、すべての人は何らかの信心をもっているのです。
昔から、“イワシの頭も信心から”といわれますように、他人から見ればつまらないものでも、信じている人からいえば信心です。特定の宗教の、神や仏を信ずることだけが信心ではないのです。
何かを信じなければ生きてはゆけませんが、私たちは、ただ生きているのではありません。すべての人は、苦しみ悩みを厭うて、幸福を求めて生きているのです。
では、苦しみ悩みはどこから起きるのかと考えてみますと、信じていたものに裏切られると起きるのです。
病人の苦悩は、健康に裏切られたからであり、夫婦の悲劇は、夫や妻が信じていた相手に裏切られたからです。子供に裏切られた親、親に裏切られた子供。家の子にかぎってと深く信じていればいるほど、裏切られた親の苦悩や怒りは大きいのです。
これらでお分かりのように、私たちは何かを信じなければ生きてはゆけませんが、やがて裏切るものを信じて生きるということは、ばかげたことです。
では、この世で生命かけて信じても、後悔しない、絶対、裏切ることのないものがあるでしょうか。
結論を言いましょう。何にもないのです。たとえ、しばらく続いても死ぬ時には、なんのあて力にもなりません。すべてに裏切られ肉体さえも焼いてゆかなければなりません。
この真実を親鸞聖人は、こうおっしゃっています。
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、万のこと皆もって、そらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします(歎異抄)
“この世のすべては、必ず裏切る。そらごと、たわごと、真実は一つもないからだ。ただ裏切らない真実は、弥陀の本願念仏のみである”
これが、世界の光(※1)・親鸞聖人の、生涯の断言です。
今、死ぬという時でも変わらないものは、三世十方の諸仏(※2)の本師本仏(※3)である、阿弥陀仏の救いのほかはないのです。
この弥陀に信じられて、救われたものこそが、永遠不滅の幸福に生き抜くことができるのです。
※1)世界の光…全人類の救われる道を明示する。
※2)三世十方の諸仏…三世十方とは、大宇宙。その大宇宙にまします無数の仏のこと。
※3)本師本仏…大宇宙の無数にまします仏の師匠。