更新履歴(2018)
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「聴聞に極まる」では頼りない心
親鸞聖人も蓮如上人も、善知識方は一貫して 「仏法は聴聞に極まる」と教えられている。だがどれだけ根拠を挙げられても「この世で無上の幸せになるのに、本当に聞く一つでいいのだろうか?」と頼りない気がするのが実態ではないでしょうか。(2018.12.17)
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苦しみの根元は「疑情一つ」
親鸞聖人は、私たちが果てしない過去から迷い苦しんできたのも、現在から未来永劫、苦悩に沈まなければならぬのも、原因は、「疑情一つ」と喝破なされています。(2018.12.11)
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仏法は聴聞に極まる
阿弥陀仏のお弟子であるお釈迦さまは、阿弥陀仏の本願は、「聞く一つで救う」お約束と明らかにされています。「聞く一つ」で完成する弥陀の救いですから、肝要は、聞法なのです。(2018.11.21)
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大悲の願船と二度の救い
この世は絶対の幸福、死しては無量光明土で仏のさとりをひらく。弥陀の救いは、二度あるのです。(2018.11.10)
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「往生を信じて」の誤解を正す
親鸞聖人のお言葉が記された『歎異抄』は、日本一読まれる仏教書です。中でも第1章が最も重要ですが、常識で読むと正反対の意味になり、無事では済まないことになるのです。(2018.11.02)
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浄土真宗の極致は「捨自帰他」
仏教で「極致」とは、最も大事な唯一のことであり、これより重い言葉はありません。弥陀の本願に救われるか否か、大悲の大船に乗せていただけるかどうかは、「捨自帰他」で決まるのです。(2018.02.10)
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去る者も追いかけて逃がさぬ摂取不捨の願心
「去る者は追わず、来る者は拒まず」と聞くと、格好よく聞こえます。しかし本師本仏の弥陀の願心は、まったく違うのです。背を向けて逃げる者を、「逃がしてなるか、お前を絶対の幸福に救えなかったら正覚(仏の命)を捨てる」と命懸けで摂取してくださる、まことの大慈悲心なのです。(2018.01.30)
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