親鸞会栃木大会
平成6年 マロニエプラザ
初夏の風薫る平成6年5月8日、親鸞会栃木大会が、宇都宮市内のマロニエプラザ(栃木県立宇都宮産業展示館)で開催された。
栃木・群馬を中心に、各地から親鸞学徒が参加、会場は熱気にあふれた。
この日、宇都宮の空は青く澄み渡っていた。
高森顕徹先生は、以下のように話をされた。
「なぜ仏教は聞かなければならぬか。これは仏教の教えが分かれば、忽ち氷解する疑問です」
「人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向って度せずんば、さらにいずれの生に向ってかこの身を度せん」
「人間に生まれてよかった。聞き難い仏法がどうして聞けたのか。いま人生の目的を達成しなければ、チャンスは、永遠にこないだろう」
釈尊のご金言に明らかな如く、人生の目的を教えられたの仏教である。
「どう生きるか」の生きがいも大切だが、「なぜ生きるか」の人生の目的こそが、優先されるべきことなのだ。
「なぜ歩くか」か曖昧なら、「どう歩くか」もいい加減になるように、人生の目的を知らずして、どうして一生懸命生きられよう。
ところが、多くの人は、生きがいと人生の目的を混同し、しかもそれに気づかない。
世にいう成功者も、みなそうである。例えば徳川家康。彼ほどの人にして「人の一生は重荷を背負うて遠き道をゆくが如し」と言っている。天下とりに生涯を費やしながら、死ぬまで重荷から解放されることはなかったのだ。
「死ぬまで求道」といえば聞こえはいいが、その実態は「死ぬまで苦しみ続ける」ことになる。それでどうして人間に生まれたことを喜べるだろうか。
人生の目的と生きがいを峻別できぬ限り、家康の悲嘆は永久にくり返されるだろう。
親鸞聖人は、「平生業成」と教えられた。平生に、人生の大事業(目的)が完成できるということである。
明らかな人生の解答に会場は、深い喜びに包まれた。