特集:父の墓石に刻まれたご和讃

平成15年報恩講初日、親鸞会館の第一講堂に席を取った美咲さん(仮名)は、演題のご和讃を見つめながら、ご説法の始まるのを待っていた。
そのご法話は、美咲さんにとって特別の意味があった。なぜなら、約30年前に死別した父親の墓石には、こう刻まれていたからだ。

墓石画像

 

 

"生死の苦海ほとりなし
 久しく沈める我等をば
 弥陀弘誓の船のみぞ
 乗せて必ず渡しける"

「おまえたちの後生を思うと、やるせなくてならん。出世しなくても、金儲けせんでもいい。とにかく仏法聞いてくれ。寺に宝があるから、その宝を必ずつかまえるんだよ」

9人の子供たちに、美咲さんの父親は口癖のように言っていた。

どんなに生活が苦しくても聴聞は欠かさず、台風で大荒れの日も、1人法座に駆けつけた。結局、住職も来ておらず、寺は閉門していたこともあったという。ある時は法話で、信の一念の話になった時、バッと立ち上がり、「皆さん、ここは大事です。真剣に聞いてください」と訴えた。

晩年は、ノート何十冊にも及ぶ子供たちへの遺書を、夜遅くまで書き続けた。

妻よ、子供よ、孫よ、仏法聞くには一生懸命になって、今聞かねば息が切れるかもしれんと思い、急ぎなさいよ

いねむり半分で聴聞するぐらいなことでは、何十年お寺参りをしても駄目です。どうか本気になって聞いてくれ

必ず宿善開発の時がきますで、来世も親子で暮らしましょう

寺に仏法はなく

そんな父の姿が心に焼きついていた美咲さんは、故郷の島根を離れ、大阪へ嫁いでからすぐ、寺参りを始めた。

ところが、末寺の説教はいつも、テレビや政治の話ばかり。最後に、“念仏称えておれば死んだら極楽、死んだら仏ですよ”と言われても、どうしても、腑に落ちなかった。

「父が1日でも1時間でも早く聞いてくれと言っていたのは、こんな話じゃない。本当にだれでも死ねば救われるのなら、『今、死なれへん』と不安に思う心は何なの?」

法話のあるたびに参詣したが、父から聞いた「後生の一大事」「平生業成」「信の一念」という言葉は出てこなかった。墓石に刻まれた「生死の苦海」や「弥陀弘誓」も聞けなかった。

「本当に、宝は寺にあるのだろうか――」

15年の時を経て

どれだけ寺参りしても何も分からず、やりきれなくなっていた時、友人の勧めで「実践倫理」の集会に参加したこともある。

「倫理道徳では救われないと思っていたけれど、寺で聞いているだけではむなしくて」

書店で『歎異鈔』の解説本などを手にしても、「“よく分かる”と書いてあるのに、これではだれも分からないよ」と嘆いた。

平成元年の冬、自宅近くで浄土真宗親鸞会の法話案内チラシを目にする。

「もしかしたら本当の仏法が聞けるかもしれない……」

すぐに講演会場へ足を運んだ。「人間の実相」のお話に、父の叫びがよみがえってくるのを感じた。お聖教のご文を1字1字、解説する法話は初めてだった。

「ああ、ここだ。ここならきっと聞かせていただける」

父の死から、15年の月日が流れていた。

間もなく、墓石の文字は親鸞聖人のお言葉だと知る。

「ずっと、父の言葉だと思っていました。親鸞聖人のご和讃から選んで彫ってくれていたんだ!」

初めて親鸞会館に参詣した時、「高森顕徹先生のお姿を拝し、何と懐かしい方かと思いました。父の姿が重なって、すごく身近に感じさせていただきました。やはりここしかない、ここだ、ここなんだと心の中で反芻しました」。

親鸞会以外、真実聞けるところはないと心が定まった。以来、父の遺言を胸に光に向かっている。

無上仏のお導き

報恩講のご説法は、いつにも増して胸にしみ入った。

“生死の苦海ほとりなし”

振り返れば、父の心を知りたくてさまよった日々も、まさに難度海だった。

“ひさしくしずめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける”

「本当の仏法を説いてくださる方を、自分の力で探したように思っていたけれど、私には真実を見る眼も、聞く耳もない。阿弥陀仏のほうから近づいてくださっていたのだと知らされます」

弥陀の弘誓によって、苦悩の根元・後生暗い心を破られ、後世を知った人こそ、仏法では智者といわれると聞いた時、父の口癖を思い出さずにおれなかったという。

「地位も財産も要らない、とにかく聴聞せよと言っていたのは、“弥陀弘誓の船があるんだ”という父の叫びだったのです。なぜあのご文を選んだのか、分かったような気がして泣きました」

美咲さんの父親の遺書には、こんな言葉も残されていた。

“生死の苦海ほとりなし
 久しく沈める私が
 今は人間世界に生れ来て
 あら不思議
 大悲の願船に乗せられて
 楽しき航海のまっただ中だ
 弥陀の御国へ着くは
 いつやら
 南無阿弥陀仏で待って居る”

息の切れ際まで美咲さんの父親は、「聴聞せよ」と言い続けた。「父の勧めで2人の姉が、弥陀の本願を喜ぶ身となったんです」。そんな姉たちの姿を、美咲さんは大切な思い出として、鮮明に覚えていた。

キリスト教から一転 「この世も次の世も花盛り」

みや子姉さんは、きょうだいの中でただ1人、父の仏法の話を遮る人でした。

「父ちゃん、そこまででいい。これからはキリスト教の時代なんだから。外国から素晴らしい宗教が来たのよ。仏教なんて古くさい!」と止めてしまうのです。

旅館に嫁いで、いつも華やかな服装に身を包んでいました。美人でスタイルもよく、世の中自分の思いどおりになると、鼻高々でいたようです。

その姉が33歳で、ガンになったんです。父は、「すぐに家に連れて帰りなさい。仏法の話をするから」と言いました。自暴自棄になっていた姉に、父は枕元で毎日、付きっきりで必死に仏法を伝えたのです。

あんなにかわいかった姉がガリガリになって、おなかだけぷくっと膨れていた。とても見ておれなくて私、そばで泣いてしまったんです。そうしたら姉が、「泣かなくていいよ。私はホントに幸せで仕方がない身になったから。この世も次の世も、花盛りの世界になったから泣きなさるな」と。

「いちばん尊いのは、阿弥陀さまだからね。私が死んでも、悲しんだりせんでいい。仏壇に行きなさいよ」と言ったのです。もうビックリしました。その時、やっぱり宗教は浄土真宗しかないと思ったんです。

病院中に響きわたる声 「とにかく仏法聞けよ」

父をとても尊敬していたのが静枝姉さんです。

「一生懸命、仏法を説いてくれるのは父さんだけだから、みんな、ちょっとずつお金を出して、今流行っているテープレコーダーを買ってこよう」と言って、父の声を録音するほど熱心でした。

その姉もガンになりました。手術後、わずか何時間かで死んでしまったのですが、その亡くなるまでの間、「仏法聞けよ、大変な世界があるから、とにかく仏法聞けよ」と、もう声が出なくなるほど、病室で叫び続けたんです。

病院中に響いて、「やかましいから、夜は静かにしてください」と、何回注意されても、静枝姉さんは絶対にやめなかった。

あるだけの声で、言える間は言わなくちゃいけない、と思ったのでしょう。

母が、「分かったよ。もう言わんでもいいから、黙っといて」と言っても、こらえなかった。その後、しばらくして息を引き取ったのです。

そんな姉の姿も忘れられません。

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