他力本願と親鸞聖人
私は仏教は尊いものだとは思っていますが、他力の仏教は嫌いです。他の力にすがらなければ生きてゆけないような無気力な教えは、私たちの意気をそぐものではないでしょうか。
しかし親鸞聖人のたくましい一生を聞くと、他力とはどんなものか分からなくなってしまいます。親鸞聖人の説かれる他力本願の本当の意味はどんなことでしょうか。
あなたのようなことを思って、真実の仏法(他力)を誤解している人が非常に多いと思います。余りにも同じような質問を多く受けるからです。
みんな他力と聞くと、「他人のふんどしで相撲をとる」ことのように考えたり、「人の提灯で明かりを取る」ことのように思っています。
力のない人間が、力のある人に助けを求める、依存心だと思っているのでしょう。その証には、新聞や週刊誌などにも堂々と、「他力本願ではだめだ、自力更生でなければならぬ」と書きたてています。
また、そんな記事を読んでも、何の不審も疑問も感じる人のいないのも、その証拠でしょう。
では他力とは、どんな意味なのかといいますと、親鸞聖人が『教行信証』に明言されていますように、阿弥陀仏の本願力を他力というのです。
他力の語源は仏教なのですから、仏教の意味に従わなければなりません。他力の「他」は阿弥陀仏のことに限るのです。
それでは、阿弥陀仏の本願力とは、どんなお力なのか。親鸞聖人は「和讃」に、こう教えられています。
無明長夜の闇を破し
衆生の志願をみてたまう(高僧和讃)
“果てしない過去から、私たちを苦しめてきた無明の闇を破り、どんな人をも、絶対の幸福にする力”
すなわち、阿弥陀仏の本願力とは、私たちの心の闇(苦悩の元凶)を打ち破って、大安心・大満足の心にするお力です。これを他力というのです。
それを世間では、常識的に他力を解釈して、自分の力以外を、すべて他力と思って、太陽の働きや、雨や風や空気、そのほか、自然の運行や他人の力など、すべてを他力だと思っていますが、とんでもない他力間違いです。
太陽やその他の自然現象を、すべて他力としますと、阿弥陀仏が干ばつで人間を苦しませることになります。地震や津波によって私たちの生命を奪ったり、台風で人命をおびやかしたり、財産を失わせたりする、呪うべき悪魔になることがあるということになります。
これらのことを他力にすることは、大慈大悲の阿弥陀仏に、とんでもない濡れ衣であり、冒涜といわなければなりません。これらは、自然の力であり、人間の力というべきものであって、絶対に他力といってはならないのです。
もちろん、自然の力や他人の協力の恵みに対して、感謝の気持ちを持つことは大切なことでありますが、これを、阿弥陀仏のお力と思ってはなりません。
他力とは、あくまでも私たちを、未来永劫、大安心・大満足の絶対の幸福にしてくだされるお力のみをいうのだということを、よくよく承知してください。
他力の真の意味が分かれば、他力によって救われた親鸞聖人の、たくましさ、明るさ、強さも、納得できると思います。
科学や医学や学問がどんなに進歩しても、私たちの苦悩はなくなりません。現実を直視すればお分かりになるでしょう。
すべての人は、他力本願によらなければ真の幸福に絶対なれないのですから、一日も早く弥陀の大願業力に救われて、他力の尊さを十分に味わって頂きたいと思います。
※弥陀の大願業力……阿弥陀仏の、我々を絶対の幸福にする絶大なお力。