人知を超えた真実の信心
親鸞聖人の生涯、教えられたことは「真実の信心」一つです。「信心」と聞くと、無宗教の自分には関係ないと思う人もありますが、「信じる」とは、「何かを頼りにする、あて力にする」ことですから、その対象は神仏に限りません。
日本人の平均寿命は80年といっても、100歳を超える人もあれば、若死にする人も大勢いるのに、自分は平均より長生きできると「命」を信じ、定年まで働き続けられると「健康」を信じています。困った時は「家族」が助けてくれると信じ、これだけ「預金」があるからと安心し、会社での「地位」を頼りにしているのも皆、信心です。
それら世間一般の信心と、聖人の明らかにされた「真実の信心」は、どこが違うのでしょうか。ご和讃で簡潔に教示されています。
真心徹到するひとは
金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと
ひとしと宗師はのたまえり
(高僧和讃)
「徹到」とは底の底まで行き着くことであり、「完成」「卒業」という意味ですから、「真心徹到する」とは、「真実の信心には完成がある」との明言です。どの宗教でも「信心」という言葉を使いますが、「まだ信仰が足りない」「もっと深く信心せよ」と勧めこそすれ、「信心に完成がある」などということはありえません。
ところが親鸞聖人の説かれる「信心」は、弥陀が一念で与えてくださる信心であり、賜る瞬間に完成してしまいますから、もう足すものも引くものもありません。真実の信心には、浅いも深いもないのです。
それはどんなことがあっても壊れない、未来永劫変わらぬ信心ですから、地球上で最も堅い金剛石(ダイヤ)に例えて「金剛の信心」といわれ、ご和讃では「金剛心」と略されています。
一念で完成する信心など、想像もできないでしょう。この不可思議な信心を「信楽」ともいいます。それは『歎異抄』に「摂取不捨の利益」「無碍の一道」と説かれる、無上の幸福です。
弥陀は全人類を必ず信楽にしてみせると、命を懸けて誓われています。この宇宙最尊のご本願(お約束)を疑うほど、恐ろしい罪はありません。弥陀に救い摂られた時、その大罪を思い知らされ、「三品の懺悔」と等しい懺悔が起きると善導大師(宗師)は教えられています。
三品の懺悔とは、目から熱涙、全身から熱汗を流す下品の懺悔、血涙・熱汗を流す中品の懺悔、満身から血の汗と涙を噴き出す上品の懺悔の3種です。弥陀の御心に背き、疑い続けてきたことに、身を裂く懺悔をさせられた一念に、本願に対する疑心が永久に無くなります。その決勝点まで、聴聞の一本道を突き進めと聖人は仰せなのです。
(R4.12.15)