ハイデガーの渇望した無碍の一道
大阪府 男性
カミソリ聖教・傍流の書である『歎異抄』が、親鸞聖人の『教行信証』によって「ひらかれ」、「聖人一流の歎異抄」に生まれ変わったと、感動のあまり、ただ絶句でした。
『歎異抄』といえば"念仏"です。ところが『歎異抄をひらく』は本願成就文に立たれ、「信心正因・称名報恩」に貫かれた「真教・真宗これなり」であり、底知れぬ深いみ教えから現れ出られた一言一言だと魂が揺さぶられます。『歎異抄』全章は1章に収まると繰り返し教えていただいておりましたが、たしかに1章には、「信」の文字が何度も出ており、ハッとさせられました。
それにしても「ただ信心を要とすと知るべし」とは、すべての思想・哲学を超えた、驚天動地の教えです。
『歎異抄』に衝撃を受けたというハイデガーは、主著『存在と時間』に、 "死に対して遮られることなく自由""死について自由""死に関して無碍"と、無碍の世界を求める言葉を繰り返しています。
37歳にしてこの本を書きながらも、無碍の世界の厳存も、求める道も知りえず、彼の言葉でいえば、〝存在の意味が暗黒に包まれている〟ままでした。
そのハイデガーが晩年に出会った『歎異抄』、そこに記された「無碍の一道」、しかも信心一つで雄飛できる、どんなに驚いたことでしょう。
念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし、罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなき故に無碍の一道なり、と云々。(歎異抄7章)
(意訳)
弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りにならぬ幸福者である。
なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。犯したどんな大罪も苦とはならず、いかに優れた善行の結果も及ばないから、絶対の幸福者である、
と聖人は仰せになりました。
弥陀の本願の真意を聞かせていただける身の幸は、どんなに喜んでも過ぎることはありません。
「かくの如き親鸞聖人や蓮如上人の教法が、いずれの地いずこの里で聞けるであろうか」の一節に「2000畳の親鸞会館でしか聞けません!」と思わず心が叫んでおりました。
「良き友よ、同胞よ、共に無上道を進もうではないか」のお言葉に「ハイ!」と心から応じ、「いつも側に親鸞がいるからね」のお言葉に涙した『歎異抄をひらく』。この中にひらかれた親鸞聖人の教えを、多くの人に読んでいただきたいと思います。。
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