『歎異抄をひらく』(高森顕徹先生著)の感想(6/6)
親鸞会会員が「歎異抄をひらく」を読んだ感想を紹介します。
徹しきられた浄土の慈悲
特に強く感じましたのは、二部で「明白だ」「明らかだ」という言葉が繰り返し使われていることでした。私はどうしても表面上の言葉から信心を類推してしまいますが、ここに展開されているのは、全く逆で、明らかな信心の世界をどうしたら相対の言葉で表現できるかというご苦労なのだと感じました。
特に二章の「ただ念仏して」は、「弥陀に一大事の後生を、ぶちまけた"ただ"」とあり、他力の信心は明らかに曖昧なものではなく、自力の私の心とは大きな断絶があることを思い知らされました。
また浄土の慈悲について説かれる四章で、
「聖人が、『あの子の済度は浄土へ往ってから』と善鸞の言動を黙認し、一人法悦されていたらどうだろう」という一文がありますが、息をのみました。心臓がえぐられるような衝撃を受けました。
善知識方のご覚悟はいかなるものか、それに対して聞かせていただく私の覚悟はどうなのか、反省しなければならないと思います。
後序に「阿弥陀仏の御恩については、少しも語ろうとしないで、誰も彼もが、善悪ばかりを問題にしてはいないだろうか」とありますが、そのとおりでした。信心を取りたるか、取らざるかの沙汰が大事と改めて知らされます。
それにしてもこの書を読ませていただける今、親鸞学徒であることを有り難く感謝せずにいられません。
「念仏」への思い変わった
読み進めていくうちに、大変な本を手にしてしまったと思いました。
親鸞会とご縁のある前から『歎異抄』も親鸞聖人のお名前も知ってはいましたが、教科書のとおり、「念仏を称えたら極楽へ往けると教えた人」程度の理解しかなく、「親鸞聖人」「念仏」と聞いても、自分とは関係ないものだと思っていました。
しかし、その念仏に対する思いが全く変わりました。念仏という言葉の多い『歎異抄』ですが、親鸞聖人は弥陀の救いは"信心一つ"と教えられ、念仏といっても、他力の信心を得たうえの念仏しか教えられていないことが改めて知らされました。
"限りなき生命の歓喜を獲て、ただ念仏するほか、人と生まれし本懐はない"というメッセージが『歎異抄』には込められているということに感動しました。
また「南無阿弥陀仏の大功徳が耳から攬入し、全身を貫き口に溢れて、南無阿弥陀仏の大宝海にかえるのだ」の一文に読みほれてしまいました。
こんな『歎異抄』の読み方は、どんな偉人も大学者もできません。親鸞聖人の教えを正しくお伝えくださる方にどうして巡り会えたのかと、身の幸を喜ばずにおれません。教行信証をもとに、『歎異抄』を読まねば、誤解曲解するだけで、自損損他になることもよく分かりました。
『歎異抄をひらく』は、私の心の迷いを打ち破ってくださいました。ますます、今生で弥陀の救いにあい、生死の一大事を解決させていただかねばと思います。
![]()
