地獄・極楽は、おとぎ話では
死後に地獄や極楽があるのないのというのは、昔ならいざ知らず、今日ではおとぎ話ではありませんか。そんなことが、どうして信じられるのでしょうか。
ウナギが、生簀の中で話をしている。
「なぜ今日は、有象無象がたくさん集まっているのだろう」
「今日は丑の日とかといって、我々が人間どもに食われる日だそうな」
「そんな勝手な、そんな人間という者がいるのか。信じられんなぁ」
「そんなこと言ったって、我々は人間に食われる運命になっているそうだ」
「だが、誰も戻ってきて、そんなこと言った者がないではないか」
「そら、また捕らえられて、連れてゆかれたではないか」
「あれは、散歩にでも行ったのでないか。そのうちに帰ってくるさ」
「引き上げられると、頭に錐を立てられ背中を断ち割られ、三つに切られて串に刺されて火あぶりだそうだ。怨み呪っても言葉が通じない。料理している奴も鬼なら、食べている奴も鬼。八つ裂きにして食うそうな。帰れるはずがないではないか」
あなたの質問は、こんな情景を思い出させます。
人間にも、物知り顔の者がいて、
「死んだら地獄で鬼に責めたてられる。そんなバカなことがあるものか。鬼でも蛇でも連れてこい。オレが捻りつぶしてやる。地獄とか鬼とか、誰か見てきた者がいるのか。地獄から戻ってきた者もいないじゃないか。
体は、焼けば灰になり、魂も同時に消えてしまうだけだ。バカげたことにクヨクヨせず、飲んで騒いで楽しんだら、それでよいのだ」
と冗談言っている者。
「死んだら死んだときさ。極楽には、滅多に往く者がいないそうだから、道中には草が生えている。地獄には、道づれが多いから道に草が生えていないそうだから、草が多く生えている方に行ったら極楽へ往けるそうな」
と茶化す者。
「地獄へいっても、オレ一人が苦しむのでない。たくさんの連れと一緒だから、賑やかではないか」
と嗤う人もいます。
ですが船が沈没したときに、オレ一人でない、溺れている者は大勢いるのだから、苦しいことではないと言っておれましょうか。
津波にさらわれる人、火災で焼けだされる人、大事な主人を失った人。独り子を亡くした人。破産した人。行方不明になった人。
世の中には色々の苦難がありますが、そんなことは世間にあることだから、なんともないと言えるでしょうか。自分が、その場に立ったら、苦しむのは自身ではありませんか。
先のようなことを放言していた者が、一緒に暮らしていた連れが、突然、死んで次の世界に運ばれると“一体、あいつどこへ行ったのだろう。あいつに会うことは、二度とないのか”、人間は、どこから来て、どこへ行くのだろう、と人生の根本的疑問がわいてくるのです。
来た道も分からなければ、行く先も知らない。
アーで生まれて、ウンで死ぬ。ヒョロリと生まれてキュウと死んでゆく。
その間、台所と便所の往復だけで、勝った負けた、盗った盗られた、増えた減った、得した損したと、目の色変えて、息が止まるまで走り続けるのです。押し合い揉み合い先陣争いをして、何に向かって走っているのでしょうか。
他人が走っているから、自分もジッとしておれないからといった調子では、走り倒れあるのみです。この道一筋、わが行は精進にして忍びて悔いじ、弥陀の無量光明土(※)に向かって進みましょう。
※)無量光明土…無限に明るい世界。弥陀の極楽浄土。