親鸞聖人は運命についてどう教えていられるのか
人間の運命ほど不思議なものはないと思いますが、親鸞聖人は、私たちの運命は何によって定まると教えられているのでしょうか。
仰る通り、人間の運命は一見不思議なものと思われます。
人間はすべて両眼、両耳、鼻や口を持っていることに変わりはありませんが、どこかその容貌に違いがあります。
地球上に70億近い人がいると言われていますが、それらの人々もみな一人一人どこかに相違があります。
中には双子があって瓜二つのように見分けのつかぬ場合もありますが、それでも運命はそれぞれ異なるということは不思議に思われます。
前の電車に乗った人が無事であったのに、2、3分後の電車に乗ったばかりに事故に遭って死んだり、怪我したりするということはいくらでもあります。今日の激しい交通戦争の犠牲者でも、瞬間的な運命の相違であらわれます。
また人間の環境ほど不公平なものはありません。極貧の家に生まれる人もあれば、乳母つきの富豪の家に生まれる者もあります。中には生まれながらの身体障害者もいます。男に生まれる者、女に生まれる者、美しく生まれる人、醜く生まれる人、種々様々の人間模様です。
同じ人間でありながら、ニューヨークのド真ん中に生まれる者もあれば、南方のジャングルの中に生まれる人もあります。
同じ日本に生まれても、江戸時代に生まれた人、明治に生まれた人、昭和の者やら平成の者あり、戦前・戦後でまたその運命は異なりましょう。
このように考えてみますと、人間の運命ほど不可解なものはないと思われるのもおかしくはありません。
そして不遇な運命をウラミ、ノロイ、苦しみ悶えている人ばかりです。こんなところから宇宙神秘説や人間運命論などが発生いたします。偶然になったことだとウソブク者もいますし、神さまの命令によってなったのだと言う者も出てくるわけです。
しかし偶然とは無知の代用語ですし、神さまをかつぎ出すのは未開人のなごりですから問題になりません。
しかし親鸞聖人は、仏教の三世を貫く峻厳な因果の道理に立脚して、永遠不滅の業の存在を教え、私たちの運命は一人一人の過去に造った業によって生み出されたものであると教えられます。
業とは、私たちの身、口、意によってなされる一切の行為を言います。過去の私たちの行為のよしあしが、現在の私たちの運命という結果をつくった原因なのです。すなわち、自己の現在の運命を生み出したものは、かって自己の意志によってなされた行為なのです。
善因善果、悪因悪果、自因自果の鉄則の通りに、蒔いた種は必ず生えるし、蒔かぬ種は絶対に生えぬのです。
ゆえに親鸞聖人の教えを聞き、真実の仏法に生かされたならば、悪い運命に立ち向かえば自己の過去の行為を懺悔し、善い運命に恵まれれば仏祖の加護に感謝して、より努力精進するようにつとめずにおれなくなってくるのです。
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