死を考えぬ私の人生観は間違いか

問 私も人間1度は死なねばならぬことぐらいは分かっていますが、毎日、死ぬ死ぬと思っていては楽しく生きられません。だから私は死をなるべく考えないように、明るく生きようと思っています。このような私の人生観についてご意見を聞かせてください。

答 あなたのような人生観をもっている人がほとんどでしょうが、まじめな人生観とはいわれません。

「今までは他人が死ぬぞと思いしに、俺が死ぬとは、こいつたまらん」
と泣いて死んだ人があったそうです。人間1度は死なねばならない、とはだれしも一応は合点しているのですが、
「自分の死」
に直面したときは、動物園でみていた虎と、山中で突如出遇った虎ほど違うのです。

あなたは、「1度は死なねばならぬことぐらいは、分かっている」とおっしゃっていますが、それは「他人の死」であって、「自分の死」という大問題については、1,000キロ先の雷か100キロ先の馬が転んだ程にも、考えてはいないのです。

勿論、戦場とか大ゲンカで極度に興奮している時は、平気で死ねるようにみえますし、不治の病で死の宣告を受けた患者の中には、自殺する人もいますが、あれは極度の興奮で一時気が狂っているか、死を怖れるのあまり自分から死んでしまうのです。

シェークスピアは『尺には尺を』の中で、
「死ぬのはこわいことだ」
と、クローディオに叫ばせ、ユーゴーは『死刑囚最後の日』の中で
「人間は不定の執行猶予期間のついた死刑囚だ」
と、いっていますが、すべての人間の悲劇は遅かれ早かれ死なねばならないところにあります。

核戦争がこわい、公害が怖ろしい、食糧危機だ、交通戦争だと騒いでいても、所詮は死がこわいということではありませんか。

死という核心に触れることがあまりにも怖ろしすぎるので、それに衣を着せやわらげたものと対面しようとしているにすぎません。

しかしどんなに死を考えないように、明るく生きようと努めてみても、必ずやってくる
「自分の死」
から、完全に目をそむけることはできません。

麻酔薬は一時苦痛をやわらげゴマ化してはくれますが、麻酔が醒めたら苦痛と対面しなければならないように、やがて私たちはどんなことをしてもゴマ化すことのできない自分の死と、自分だけで対面しなければならない時が、必ず来るのです。

ではなぜ死が怖ろしいのか。

それは「死んだらどうなるのか」という未知の後生に入って行く不安があるから怖ろしいのです。

これを仏教では、
「暗い後生」といい、
「一大事の後生」といいます。

親鸞聖人は、
「一たび人身を失えば万劫にかえらず、いたずらに後悔を残すことなかれ」(教行信証)
と教え、それ故に蓮如上人は、
「あわれあわれ存命のうちに、みなみな信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」
と、この一大事の後生の解決(信心決定)を急げと叫び続けておられます。

この魂の解決をして、死んでよし生きてよしの無碍の大安心へ雄飛しない以上、あなたの求めていられる光明の人生は開かれません。

一切の人生苦の根源である死の解決こそ一生参学の大事であり、全人類究極の目的なのです。

しかもそれは、真実の仏法、阿弥陀仏の本願力によらなければ絶対に果たし得ない難中之難の大事です。

この一大事の後生の解決のでき得る唯一の道を教える真実の仏法を求めて、真に明るい人生を心ゆくまで味わってください。

 

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