私の人生観は間違いか
毎日、死ぬ死ぬと思っていては楽しく生きられません。だから私は死をなるべく考えないように生きようと思っています。私の人生観について聞かせてください。
あなたのような人生観を持っている人は決して少なくないでしょうが、真面目な人生観とは思えません。
「死や死後」の問題を近代合理主義は、「知りえざるもの」として否定しましたが、死滅しませんでした。
かえって、この問題は内攻して近代人の大きな痛みとなっております。
死病にかかると不治だということを、本人には知らせないことになっています。近親者は「大丈夫です、すぐよくなると先生はおっしゃっていますよ」と口をそろえます。
この世の終わりに、近親者から最大のウソをつかれて死んでゆくのです。
それほど死は残酷なものだからでしょう。
だからあなたが死ぬ死ぬと思っていては、楽しく生きられないとおっしゃるのはよく分かりますが、どんなに死を考えないようにして明るく生きようとしても、百パーセントやってくる「死」からは、完全に目をそむけることはできません。
麻酔薬は、一時、苦痛をやわらげてはくれますが、麻酔が覚めたら苦痛と対面しなければならないように、やがて、ゴマカすことのできない自分の死と、自分だけで対面しなければなりません。
それで親鸞聖人は、
呼吸の頃すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すことなかれ(『教行信証』行巻)
“吸った息が吐けなかったら、吐いた息が吸えなかったら来世である。後生は遠い話ではない。死ねば、二度と同じ人身に戻ることは永遠にないのである。今、この一大事を解決しなければ、いつできるであろうか。永遠のチャンスは、今しかないのだ。
されば、刻々と迫る無常を凝視して、決して後悔を残すことがあってはならない”
と教えられています。
一切の苦悩の根元である、後生の一大事を解決して、無碍の世界に雄飛しない限り、私たちの求める光明の人生は開けないのです。
それは、弥陀の本願力によらなければ、絶対果たし得ない大事業なのです。この大事業を成就して、死んでよし生きてよしの、真に明るい人生を生きましょう。