仏教は独尊的な教えではないのか
お釈迦さまが誕生された時に「天上天下、唯我独尊」と言われたそうですが、仏教は、そんな独尊的な教えなのですか。
![]()
世間に大変誤解されている仏教の言葉の一つです。確かに釈尊が誕生された時に天と地を指さされて、「天上天下、唯我独尊」と叫ばれたと伝えられています。
この言葉を多くの人は、「この世で一番偉くて尊いのは、ただ私一人である」と、釈尊が他人を見下げて威張っていられるように思っています。
だから自惚れている人を「あいつは唯我独尊だなどと言います。
しかし、釈尊の「天上天下、唯我独尊」の宣言の意味は、そのような思い上がったことを仰ったものではないのです。
「唯我独尊」の「我」というのは、釈尊だけのことを仰ったものではなく、われわれ人間ということなのです。ですから人間は誰しも釈尊と同じように、「天上天下、唯我独尊」なのであり、そう言えるのです。
では、「独尊」とはどういうことかといいますと、たった一つの尊い使命ということで、自分一人が偉いということではありません。
ゆえに「天上天下、唯我独尊」ということは、天上天下広しといえどもただわれわれ人間にしか果たせない、たった一つの聖なる目的があって生まれてきたのであるということなのです。
釈尊が、この世へ生まれられたたった一つの目的は『正信偈』に親鸞聖人が、
(原文)
【如来、世に興出したまう所以は、唯、弥陀の本願海を説かんが為なり】
(意訳)
「釈尊がこの世に現れられた目的は、ただ弥陀の本願一つを我々に教えるためであった」
と道破されているように、釈尊の唯我独尊は一切の人を絶対の幸福に救うという阿弥陀仏の本願一つを説くためでありました。
天上天下広しといえども、唯一無二の弥陀の本願を説くたった一つの目的を担って私は生まれてきたのだという、釈尊の大使命感が「天上天下、唯我独尊」という格調高き宣言となったのです。
このように釈尊の「唯我独尊」は、弥陀の本願一つを説くという聖使命であったことは明らかですが、全人類の人生の目的は何でしょうか。
これを鮮明に自覚していない人は、決して「天上天下、唯我独尊」ということは言えません。
(原文)
【人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く。この身今生に向って度せずんば、さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし】(釈尊)
(意訳)
「生まれ難い人間に生まれてよかった。聞き難い仏法が聞けてよかった。この人生で生死の一大事を解決しなければ、いつできるであろうか。永遠のチャンスは今しかない。みな人よ、真剣に仏法を聞かねばならぬ」
この釈尊のお勧めのように、すべての人の生まれてきた唯一の目的は、弥陀の本願を聞信して人生究極の目的である絶対の幸福を体得することにあるのです。
この人生の目的が成就した時、すべての人が天と地に向かって、「天上天下、唯我独尊」と絶叫せずにおれなくなるのです。
これを機縁に、我々の生きる目的について深く考えてみようではありませんか。
![]()
