御本尊、親鸞聖人の仰せ通りに
根拠は至極の「本願成就文」

親鸞会 アメリカ

 仏教で本尊とは、根本に尊ぶべきものをいう。

 最初のボタンをかけ違えれば、全てのボタンがズレるように、仏法も根本を誤れば全て間違う。
 ゆえに親鸞学徒は、最も大事な御本尊を、親鸞聖人のお勧めどおり「南無阿弥陀仏」の御名号としている。

 ところが、現今の浄土真宗の学者は、木像も絵像も名号も同じだと言い、最近出したパンフレットには、御名号のみを本尊とする親鸞学徒を、「宗教感覚がアンバランス」「信心に培われた感覚がない」と非難している。真宗界に根づく、こうした誤解を縁として、正しい御本尊は何かを明らかにしよう。

「親鸞聖人は名号を、御本尊にされていた」
 これは浄土真宗の寺院が発行したパンフレットにも記された、誰もが認める事実である。

 さらに熟知せねばならぬのは、御名号本尊とされたのは親鸞聖人が最初、ということである。

 聖人は、それまで寺院で本尊とされてきた木像や、弥陀三尊の絵図などを捨て去り、ただ御名号のみを本尊となされている。

 本尊を、木像・絵像から御名号に替えれば、今日でも猛反対が起きる。ましてや750年前、誰もされたことのない「御名号本尊」にすれば、当時の仏教界はもちろん、世間からも、どれほど異端視、非難されたか分からない。

 それでもなお聖人が生涯、御名号本尊を貫かれ、門弟にもご下附なされたのは、重大な意味があってのことだ。「木像も絵像も名号も同じ」なら、ありえぬことである。

 聖人の深意は分からずとも、大切な御本尊は聖人のなされたとおりさせていただくのが“信心に培われた感覚”というものであろう。

蓮如上人の端的なご教示

 蓮如上人もこのように仰っている。

「蓮如上人へある人申され候、開山の御時のこと申され候、『これはいかようの子細にて候』と申されければ、仰せられ候、『我も知らぬことなり、何事も何事も知らぬことをも開山のめされ候ように御沙汰候』と仰せられ候」

 ある人が蓮如上人に、「親鸞聖人は、なぜそのようなことをなされたのでしょうか」と尋ねた時、「私も分からぬ、しかし、何事も何事も親鸞聖人のなされたようにするのがよい」と教えられたというのである。

 親鸞聖人のみ教えを忠実に伝えられた蓮如上人だから、御本尊についても、

「他流には『名号よりは絵像、絵像よりは木像』というなり。当流(真宗)には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』というなり」
(御一代記聞書)

と、聖人のご教導を簡潔明瞭に示されている。木像でも絵像でも名号でもよいなら、蓮如上人が、当流と他流に分けられるはずがない。

 また、

「然れば蓮如上人の御時、あまた御流に背き候本尊以下、御風呂の度毎に焼かせられ候」

と、親鸞聖人の御名号本尊の教えに違反する多くの本尊を焼かれたのである。

救いは「聞其名号」

 浄土真宗の教義安心の至極は、『大無量寿経』の本願成就文にある。そこには

「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」

と、私たちの後生の一大事は、名号(南無阿弥陀仏)のいわれを聞信する一念で解決する、と明記されている。ゆえに親鸞聖人は、本尊を御名号と定められたのである。

「木像・絵像・名号のどれも同じ」という主張は、浄土真宗の至極、「本願成就文」の教えに反する邪義であり、御名号本尊を“宗教感覚がアンバランス”と言うに至っては、親鸞聖人、蓮如上人のご信心に対する冒涜である。

 親鸞学徒は、何事も何事も、親鸞聖人、蓮如上人のお勧めどおり、進ませていただくことが大切である。

あなたが仏教から学べるたった一つのこと

 

止まらない御名号本尊の流れ

親鸞聖人が、御名号を本尊となされた根拠はあるのか

根本に尊ぶべき御本尊

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