人生の目的

 もし、「人生の目的」がなかったら、大変なことになります。
 生きる意味も、頑張る力も消滅してしまうからです。
 なのに、 「人生に目的なんて、ないよ」 と、言う人が、意外に多いのです。
 本当にそうでしょうか。何か、大事なものを、忘れていないでしょうか。
 1度きりしかない人生、後悔しないためにも、まず、「なぜ苦しくとも、生きねばならぬのか」を考えてましょう。


◆第6章◆ 苦悩の根元

(4)なぜ、人生は苦しみの連続になるのか

 皆、幸福を願っているにもかかわらず、なぜ、果たせないのか。
 前回の釈尊のお言葉、 「苦しみの原因を、正しく知らないからである」 を思い出していただきたい。
 苦しみの根元を誤認していたのでは、どんなに努力しても幸福にはなれない。
 では、仏教では、苦悩の根元を、どう教えているのだろうか。
 親鸞聖人は、断言されている。

「真の知識にあうことは
 かたきが中になおかたし
 流転輪廻(るてんりんね)のきわなきは
 疑情(ぎじょう)のさわりにしくぞなき」

 流転輪廻(るてんりんね)とは、車輪が回るように、同じ所をグルグル回ってはてしないことで、苦しみを表している。
 こんな人生なら、死んだほうがましだと、自殺する人が後を絶たない。これを、流転輪廻という。
 人はしかし、この苦しみから解放されたい、本当の幸福になりたい、と願ってやまない。それなのになぜ、人生は苦しみの連続になるのか。
 親鸞聖人は、 「疑情(ぎじょう)のさわりにしくぞなき」 、疑情1つが原因である、と断言なされている。
 しかも、このように教えてくださる人は、ほとんどないから、 「真の知識にあうことは  かたきが中になおかたし」 とおっしゃっているのだ。
 知識とは、釈尊の教えを説く人、つまり仏教の教師のことである。真の知識、本当の仏教を教える先生に会うことは、極めて難しいのである。
 親鸞聖人は、4歳でお父さまと、8歳でお母さまと悲しい別れをなされ、次に死ぬのは自分だ、死んだらどうなるのか、と不安になられた。
 9歳にして、当時、日本じゅうから仏教の学者が集まっていた比叡山に入られ、20年間勉学されたが、そこでは真の知識に会えなかった。


京都市街から見る比叡山

 29歳で下山され、京都の町をさまよっていらした時、かつての法友・聖覚法印(せいかくほういん)の導きによって、苦悩の根元を説き切られる法然上人に巡り会われたのである。
 なんと真の知識とはおられないものだなあと、親鸞聖人は体験からおっしゃっているのである。
 苦しみの原因を、お金がないから、こんな人と結婚したから、体が不自由だから、こんな子供がいるから、と教える人はたくさんいる。そんな人となら会いやすいだろう。
 しかし、「疑情1つ」と教えてくださる方がほとんどない。だから会い難いと言われるのである。

(5)苦しみの根元は、無明の闇

 では、疑情とは何だろうか。
 これは、「無明」とも「無明の闇」ともいわれる。「後生暗い心」のことである。 「後生」とは、死後のこで、「暗い」とは、ハッキリしないことをいう。経済、医学に暗い、といえば、それらのことがよく分からない、という意味である。
 つまり、「後生暗い心」とは、死んだらどうなるかがハッキリ分からない心である。 「無明の闇」とは、この「後生暗い心」だけをいうのだ。
 私たちは、年々、死に近づいている。これは、何人も否定できない。間違いなく、墓場、火葬場に近づいている。どうにもならない事実である。地球上の時計を全部止めても、これだけは止めることはできないだろう。
 老後がたとえなくとも、死は、100パーセント間違いない、確実な未来である。
 では、死んだらどうなるか。ハッキリしているだろうか。 「死後はない」と言う人でも、肉親が亡くなれば、墓参りをする。慰霊祭にも参加する。そうせずにいられない気持ちになるからだろう。 「安らかにお眠りください」などとも言う。本能的に言わずにいられないのである。
 つまり、内心では、死後の世界を認めている。しかも、死者はどうも苦しんでいるようだ、ということも直感しているのである。
 しかし、死後何があるのかは、どうもハッキリしない。これでは、安心して生きていけるはずがない。未来が不安なのだから。
 たとえば、3日後に試験がある。そんな時、今、楽しくやろうや、と言ってもできるだろうか。試験が気になって、楽しめないだろう。ちゃんと勉強しているから大丈夫といっても、試験は水物、どうなるか分からない。どうしても気になる。だから、今が心から安心できないのではないだろうか。 「死んだら死んだとき。今からつまらん心配するな」と言う人もいるが、本当に気にせず生きてゆけるかどうか。
 正直に、心に問うてみたらどうだろう。
 あるかないか分からぬ火事や老後のことでさえ、「なってみにゃ分からん。つまらんこと心配するな」とは言っていられないではないか。
 未来、後生が本当にハッキリしない限り、現在、心から安心はできないのだ。人間に生まれてよかった、という安心、満足感など得られるはずもないのだろう。

(6)無明の闇を晴らす 阿弥陀仏の本願力

 人生の目的を示された親鸞聖人の答えは、ゆるぎなき確信で、簡潔である。

「難思の弘誓は、難度海を度する大船、無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり」

 主著『教行信証』冒頭のお言葉だ。
「弥陀の誓願で苦悩の根元の無明の闇を破られ、未来永遠の幸福になるのが、人生の目的である」と言われている。
 本当は一生や二生の問題ではないのだが、多生と言っても一般には分からないから、人生の目的と言っているだけなのだ。こんな大目的をもった生命だから、「人命は地球よりも重い」と言われるのだろう。
 趣味や生きがいの喜びは、ほんのしばらくのことである。
「今までで、いちばんうれしかったことは?」と聞かれて、
「いやぁ、何かいいことあったかなぁ……」というような色あせた記憶しか残っていないのが実態だろう。「寝る時がいちばん幸せかな」という若者の声は、生きがいや趣味のむなしさを語るにじゅうぶんだが、人生の目的は全く違うのだ。
『教行信証』が「よろこばしきかな」ではじまり「よろこばしきかな」で終わっているのは、人生の目的を達成された、親鸞聖人の歓喜の告白だからである。
 その最初と最後のお言葉を紹介しよう。

「ここに、愚禿釈の親鸞、よろこばしきかなや、西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、あいがたくして今あうことをえたり、聞きがたくして、すでに聞くことをえたり。真宗の教・行・証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。
 ここをもって、聞くところをよろこび、獲るところを嘆ずるなり」

「愚禿釈の親鸞、よろこばしきかなや。なんの間違いか、毛頭あえぬことに、いまあえたのだ。絶対聞けぬことが、いま聞けたのだ。釈迦が、どんなにすごい弥陀の誓願を説かれていても、伝える人がなかったら、無明の闇の晴れることはなかったであろう。
  ひろく仏法は伝えられているが、弥陀の誓願不思議を説く人はまれである。その稀有な、印度・中国・日本の高僧方の教導にあえたのだ。この幸せ、何に比べられようか。ただ知らされるのは、阿弥陀如来の深いご恩である。なんとか伝えることはできないものか」
  一字一涙の思いで書き始められた聖人が、最後に書かれたのが次のお言葉だ。

「よろこばしきかな。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。
 ふかく如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚をあおぐ。
 慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。(中略)
 ただ、仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず。
 もし、この書を見聞せん者は、信順を因となし、疑謗を縁となし、信楽を願力にあらわし、妙果を安養にあらわさん」(『教行信証』後序)

「よろこばしきかな。心を弘誓の仏地に樹て」
と言われて、
「金や財を力にしている者は、金や財を失った時に崩壊する。名誉や地位を力にしている者は、それらをなくした時に顛倒する。親や子供を力にしている者は、親や子を亡くした時に失墜する。信念を力にしている者も、信念ゆらいだ時にまた倒壊する。
  心を不倒の仏地に樹て、不思議の世界に生かされた親鸞ほど幸せ者はない。限りなきよろこびは、返し切れない報謝にこの親鸞を泣かす。世間の嘲笑・罵倒など、ものの数ではない。
  この本を読む人のなかには、信ずる人も謗る者もいるだろう。だが、それを因縁として、みなみな弥陀の救いに遇い、絶対の幸福を獲得してもらいたい」
  人生の目的を成就した熱烈なよろこびが、体いっぱいみなぎっているのがビンビン伝わってくる。だから「恩徳讃」も、切々と迫ってくるのである。

「如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 骨を砕きても謝すべし」(『正像末和讃』)

「弥陀と師教の大恩は、身を粉に、骨砕きても足りませぬ。大海の一滴も返し切れない身に泣かされるばかりである」
 このような熱火の法悦は、多生永劫の目的を果たしえねばありえないことであろう。

 この素晴らしい世界を教えられているのが、本当の仏教なのです。
 人生には、大切な目的があります。だから、早く達成しなさいよ、と親鸞聖人は教えていかれたのです。

(終)

あなたが仏教から学べるたった一つのこと


 

◆推薦図書◆
もっと詳しくお知りになりたい方は、次の書籍をお勧めします。
「なぜ生きる」(高森顕徹監修|明橋大二・伊藤健太郎 著)
「歎異抄をひらく」(高森顕徹 著)

[目次]


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