人生の目的

 もし、「人生の目的」がなかったら、大変なことになります。
 生きる意味も、頑張る力も消滅してしまうからです。
 なのに、 「人生に目的なんて、ないよ」 と、言う人が、意外に多いのです。
 本当にそうでしょうか。何か、大事なものを、忘れていないでしょうか。
 1度きりしかない人生、後悔しないためにも、まず、「なぜ苦しくとも、生きねばならぬのか」を考えてましょう。


◆第5章◆ 生と死

(4)黒澤明『生きる』からのメッセージ

「死」は、単なる「生」の終焉なのか――。
「死」に直面した時、「死にたくない!」と叫び、得体の知れぬ恐怖に震えるのが、ありのままの人間の姿ではなかろうか。
 そんな人間を赤裸々に描き、「なぜ生きるか」を世に問うた映画がある。巨匠・黒澤明の代表作、『生きる』がそれだ。
 制作の意図を、黒澤監督は、こう語っている。
「この映画の主人公は死に直面して、はじめて過去の自分の無意味な生き方に気がつく。いや、これまで自分がまるで生きていなかったことに気がつくのである。そして残された僅かな期間を、あわてて立派に生きようとする。
 僕は、この人間の軽薄から生まれた悲劇をしみじみと描いてみたかったのである」
 昭和27年の作品だが、今でもビデオレンタル店には大概並んでいる。時代を超えて人々の心を打つ真の姿が、そこにあるからだろう。
 この映画の発するメッセージに、あなたなら、どう答えるだろうか。

◆生きながら、死んでいる

 映画は、唐突に、1枚のレントゲン写真から始まる。
ナレーター「これは、この物語の主人公の胃袋である。幽門部に胃ガンの兆候が見えるが、本人はまだそれを知らない」
 主人公・渡辺勘治は、ある市役所の市民課長である。机にかがみこんで、次々と機械的に書類に印を押している。時折、生あくびをかみ殺してチラッと時計を見る。
 まったく生気がなく、憂鬱な虫のようだ。そのくせ、書類に押す印の位置は正確で恐ろしく速い。つまり、この男は無意味な忙しさに慣れ切っている。
 30年間、可もなく不可もなく、ただ無難に働く渡辺の姿を映し出しながら、ナレーターは、痛烈な言葉を投げかける。
「彼は時間をつぶしているだけだ。彼には生きた時間がない。つまり彼は生きているとはいえないからである」
「だめだ! これでは話にならない。これでは死骸も同然だ」
「いったいこれでいいのか! この男が本気でそう考えだすためには、この男の胃がもっと悪くなり、それからもっと無駄な時間が積み上げられる必要がある」
 なんと皮肉なナレーションだろう。
 ただ日々の糧を得て、家族を守るために、黙々と働く姿は、「生きている」といえるだろうか。黒澤監督は「死骸も同然」と言い切っている。
 誰もそんな生き方をしたいはずがない。
 しかし、「人生の目的」を真剣に考えず、忙しい忙しいで流されていくうちに、『生きながら死んでいる』と指摘されても文句のいえない状態に陥ってしまうのだ。

◆あと4カ月の命なら、何をするか

 胃の痛みに耐え切れず、やがて渡辺は、仕事を休んで、病院へ行った。30年間無欠勤の記録が、あと1カ月で達成という矢先に、診察を受ける気になったのだから、よほど悪化したに違いない。案の定、末期の胃ガンであった。医者は、「軽い胃潰瘍です」とごまかしたのだが、ひょんなことから、彼は事実を知ってしまったのである。
 恐ろしいまでに青ざめ、放心状態の渡辺が去った後の診察室……。
助手「半年くらいですか」
医師「いや……、まあせいぜい3カ月か4カ月だな」
助手「4カ月!」
医師「うん、もし君がね、あの人のようにもう4カ月しか生命がないとしたら、いったい、どんなことをする?」
助手「?」
 答えられない。
 私たちならば、何と答えるだろうか。
 この問いこそ、人生を見つめ直すキーポイントなのだ。

◆だれも分かってくれない、孤独と絶望の淵へ

 死の恐怖におびえる渡辺。病院の外へ出ても、往来の騒音が聞こえないくらいのショックだった。
 まず頼りとするのは家族である。彼は、早くに妻と死に別れ、男手1つで息子を育ててきた。息子だけが明かりである。
 しかし、どんなにか心配し、どんなにか慰めてくれるだろうと期待していた息子は、冷たかった。悲愴な親の雰囲気さえ察知してくれない。もはや自立し、結婚した息子は、夫婦の仲のことしか頭になかった。
 息子は、父親の退職金を当てにして、妻と2人だけの新居を建てようとしている。そんな息子夫婦の会話を聞いてしまい、渡辺は愕然とする。胃ガンのことを、打ち明けることさえできなかった。
  暗くて寒々とした部屋に閉じこもる渡辺。2階の息子夫婦の部屋からは陽気なレコードが聞こえてくる。それが、彼の絶望と孤独感を一層かきたてる。
 妻と死別した後、再婚話もあったが、子供のためにと断って、黙々と働いてきたのだ。
 父と子の絆が、思い出のシーンとしてよみがえってくる。
 野球で息子が活躍する姿を見守っていたあの日……。
 病気で手術室へ運ばれていく息子を励ましたあの日……。
 戦地へ赴く息子を駅で見送ったあの日……。
 あの日の息子は、父1人をあて力にし、深い愛情で結ばれていた。
 しかし、今となっては、夢でしかない。藁をもつかむ思いの親が、子を頼ろうとした時、もう、子供の心は離れてしまっていたのだ。
 心の中で、息子の名を呼び続ける姿が、実に切なく描かれている。
 渡辺は、布団の中にもぐりこみ、うめくように泣くだけだった。
 人間の姿を、釈尊は、 「独生独死 独去独来」 とおっしゃっている。
「独り生まれ、独り死ぬ。独り来たりて、独り去る」 と読むが、しょせん、人間は独りぼっちなのである。
 たとえ1軒の家に住む家族といえど、心の奥底までは、分かり合えるものではない。

◆大金を投じて遊んでも、心は晴れない

 次に、渡辺は、快楽で、死の恐れを忘れようとする。役所を無断欠勤し、街をさまよう。
 飲み屋で知り合った男に、自分は胃ガンであると告白する。
男 「しかし、胃ガンと分かっていて、酒を飲むなんて、まるで自殺……」
渡辺「ところが死ねません。一思いに死んでやれ、そう思っても、とても死ねない。つまり死に切れない。私は、この年齢まで、何のために……、その……」
 何のために働いてきたのか、人生の最後に味わう悔恨は、あまりにも残酷だ。高い酒を飲むのは、今までの自分への面当てなのだと、ボソボソ語る。
 そして、何十年もかかってためた大金を出し、 「一思いに使いたいが、使い方が分わからない。教えてほしい」と、男に頼む。
 驚きの目で、男は言う。 「あなたの胃ガンは、あなたに人生に対する目を開かせた。いや人間は軽薄なもんですな。生命がどんなに美しいものかということを死に直面した時、初めて知る。しかし、それだけの人間がなかなかいません。 ひどいやつは死ぬまで人生の何たるかを知りません」
 死に直面した時、どんな目が開かれるのか。それは「なぜ生きるか」への厳しい批判である。
 子供のためでなかった――、 お金をためるためでもなかった――、仕事のためでもなかった――、どれもこれも「人生の目的」と呼べるものではなかった、と知らされ、愕然とするのである。後は、破れかぶれだ。せめて遊んで、「死」を忘れるしかない。
 男に案内されて、渡辺は、夜の歓楽街へ出ていった。
 パチンコ、ビヤホール、ダンスホール、ストリップ劇場、キャバレー……、明け方まで遊び歩いても、心は晴れない。
 泥酔しながら、 「生命短し  恋せよ乙女……」 と、鬼気迫る声で歌い出す。
 普段なら、ゾクゾクするほどの快楽を一度に経験しても、すべてが色あせて見える。
 余命いくばくもないと知らされた者に、何がいったい、楽しめるというのか。
 生涯働いてためたお金をつぎ込んで遊びほうけても、死の恐怖は去らなかった。
 丸裸になって死んでいく人間の実相を、蓮如上人は、ズバリ指摘されている。

「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず、されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」 (『御文章』1帖目11通)

 いよいよ死んでいかねばならぬ時には、それまで自分が命に代えて守ってきた妻や子供も、何の頼りにもならない。一生かかって蓄えた財産も明かりにはならない。
 死んだらどうなるのか、目の前が真っ暗になり、これまでの人生は何だったのか、と悔やまずにおれない。たった1人で、泣きながら死んでいかねばならないのだ。

◆目の前が真っ暗、何もつかむものがない

 朝帰りの渡辺は、自宅近くで、若い女性に出会う。同じ市民課の事務員である。彼女の、生き生きとした明るさに、まぶしさを覚える……。
 渡辺は、年がいもなく、毎日、彼女を誘って、食事や映画に行くようになる。周囲の謗りなど眼中にない。
 しかし、彼女は困惑する。
女 「ね、どういうわけなの。なぜ、私の後ばかり追い回すの」
渡辺「その……、つまり……」
女 「つまり、なんなのよ」
渡辺「つまり、私は、君とこうやっていると、楽しいから」
女 「老いらくの恋? だったらお断りよ」
渡辺「いや、そんな、私は、ただ……」
 彼女に告白する渡辺の心情には、切々と迫ってくるものがある。
「自分でも分からない。どうして、君の後ばかり追い回すのか。ただ、私に分かっているのは……、君、私はもうすぐ死ぬんだ……」
「君、分かるかね、どうジタバタしてもあと1年か、半年だ。それが分かってから、私は、急に、ここが……(胸を押さえる)。そうだ、私は子供の時、池でおぼれかけたことがあるが、その時の気持ちそっくりだ。目の前が真っ暗だ。もがいても、暴れても、何にもつかむものがない。ただ、君だけ……」
「君を見ていると、何か、ここが(胸を押さえる)、温かくなる……」
 定年間近の課長が、若い女性に、なんとブザマな姿をさらしているのかと、笑えるだろうか。何か、明かりを見つけたいという必死な姿が、そこにある。
「君は、どうして、そんなに活気があるのか。私は、死ぬまで、1日でもよい、そんなふうに生きて、死にたい。いや、それでなければ、とても死ねない。私は、何かしたい。何かすることがある。ところが、それが分からない」
 鬼気迫る表情、正気を失ったような目……。「死」は、かくも、生ある者を狼狽(ろうばい)させるのだ。
 知識人の中には、 「大騒ぎせずに、死を受け入れよう」 とか、 「病気で体が不自由になったら、潔く自殺したい」 などと公言する人がいるが、それこそ『机上の空論』であり、あまりにも「死の実体」を知らな過ぎる発言だ。

◆生命の歓喜は、どこに 模索しながら独り死す

 必死にもがく渡辺は、 「人のために役立つ仕事をすれば、生きる喜びが味わえるのでは」 と思い立つ。役所へ戻った彼は、住民の陳情に応え、汚いどぶを埋め立てて、公園を造ろうと動き出す……。
 ここで場面は、いきなり5カ月後の、葬儀へ飛ぶ。
 渡辺勘治は、自分が造った公園で死んだ。雪の降る寒い夜、人知れず、倒れているのを発見されたのだ。司法解剖の結果 、胃ガンによる出血死だった。
 彼が、どういう心境で死んだのか、映画は謎のまま終わっている。問題提起はできても、解決の道は分からない、というのが、黒澤監督の本音だろう。
  人のために尽くすのは、りっぱな生き方に違いない。やけを起こすより、よっぽどましだ。だが、それで「死」の煩悶が解けるのか。「生まれてよかった」の生命の歓喜が得られるのか。
 そんなことぐらいで解決のつく問題ではない。釈尊は、臨終の恐るべき心相を、経典に説かれている。

「大命将に終らんとして悔懼交至る」 (大無量寿経)

 大命とは肉体の生命。悔は後悔。懼はおそれということであるから、臨終に心眼に迫ってくる後生の恐怖に、恐れと後悔の思いが代わる代わる起こるぞと喝破されている。
 実際の「死の恐怖」は、映画で描けるほど生やさしいものではないのだ。想像を絶する深刻な闇が待ち受けているのである。

(5)なぜ、死が恐ろしいのか  ごまかしきれない一大事

「今までは他人が死ぬぞと思いしに、俺が死ぬとは、こいつたまらん」
と泣いて死んだ人があったという。人間一度は死なねばならない、とはだれしも一応は合点しているが、 「自分の死」 に直面したときは、動物園で見ていた虎と、山中で突如出会った虎ほど違う。

「1度は死なねばならぬことぐらいは、分かっている」 と皆思っているが、それは、 「他人の死」 であって、 「自分の死」 という大問題については、1,000キロ先の雷か100キロ先の馬が転んだほどにも、考えてはいないのだ。
『死ぬ瞬間』などの著書で世界的に有名な精神科医、キューブラー・ロスは、ターミナルケア(終末医療)の先駆者として、40数年にわたり数千人の人々の最期を看取ってきた。
 死に行く人を励まし、愛の言葉で力づけてきた功績で、聖人とも聖女とも呼ばれていたそうだが、晩年脳梗塞に倒れ、豹変している。
「もうこんな生活はたくさん。愛ってよく言ったもんだわ」
「聖人? よしてよ、ヘドが出る」
 精神分析は時間と金の無駄であった。自分の仕事、名声、たくさん届けられるファン・レター、そんなのは何の意味もない。今、何もできずにいる自分など一銭の価値もない、と言うのである。
 死は誰にでも訪れるものだから恐れなくてもよい、と他人を励ましてきた人が、自分の死に対してはとてもそうはいかなかった。
 幻滅して、離れていってしまったファンも多かったようだ。
 これはいかに「自分の死」に対して我々が無知であるかの証であろう。
 もちろん、戦場とか大ゲンカで極度に興奮しているときは、平気で死ねるように見えるし、不治の病で死の宣告を受けた患者の中には、自殺する人もいるが、あれは極度の興奮で一時気が動転しているか、死を恐れるのあまり自分から死んでしまうのである。
 フランスの哲学者、パスカルは、 「ここに幾人かの人が鎖につながれているのを想像しよう。みな死刑を宣告されている。そのなかの何人かが、毎日、他の人たちの目の前で殺されていく。残った者は、自分たちの運命もその仲間たちと同じであることを悟り、悲しみと絶望とのうちに互いに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。これが人間の状態を描いた図なのである」(パンセ) と、言っているが、すべての人間の悲劇は遅かれ早かれ死なねばならないところにある。

 核戦争が怖い、公害が恐ろしい、食糧危機だ、交通戦争だと騒いでいても、しょせんは死が怖いということではないか。
 死という核心に触れることがあまりにも恐ろしすぎるので、それに衣を着せ和らげたものと対面しようとしているに過ぎない。
 しかしどんなに死を考えないように、明るく生きようと努めてみても、必ずやってくる、 「自分の死」 から、完全に目を背けることはできない。
 麻酔薬は一時苦痛を和らげごまかしてはくれるが、麻酔から醒めたら苦痛と対面しなければならないように、やがて私たちはどんなことをしてもごまかすことのできない自分の死と、自分だけで対面しなければならない時が、必ず来る。
 ではなぜ死が恐ろしいのか。
 それは、 「死んだらどうなるのか」 という未知の後生に入っていく不安があるから恐ろしいのである。
 これを仏教では、 「暗い後生」 といい、 「一大事の後生」 という。
 親鸞聖人は、

「一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すことなかれ」(教行信証)

と教えられている。
 この魂の解決をして、死んでよし生きてよしの無碍の大安心へ雄飛しない以上、全人類が求めている光明の人生は開かれないのである。

あなたが仏教から学べるたった一つのこと


[目次][次のページ]


home