人生の目的

 もし、「人生の目的」がなかったら、大変なことになります。
 生きる意味も、頑張る力も消滅してしまうからです。
 なのに、 「人生に目的なんて、ないよ」 と、言う人が、意外に多いのです。
 本当にそうでしょうか。何か、大事なものを、忘れていないでしょうか。
 1度きりしかない人生、後悔しないためにも、まず、「なぜ苦しくとも、生きねばならぬのか」を考えてましょう。


◆第4章◆ 生命

(1)「とにかく生きよ」で 自殺は止められるか

 平成15年の自殺者は、34,427人(警察庁調べ)と、過去最悪を記録した。毎日、日本のどこかで94人もの人が自ら命を断っている計算になる。
 3万人といってもイメージがわかないかもしれないので、具体的に比較してみよう。
 同じ年の交通事故死者は、7,702人(警察庁調べ)。
「交通戦争」の死者の、実に5倍近い人が自殺している。
 あの、神戸の街を瓦礫の山と化した阪神大震災の犠牲者は、6,433人。自殺者は、その6倍にもなる。日本列島が、阪神大震災クラスの地震に、6回襲われた死者数に匹敵するのだ。
 福島県の喜多方市の人口は約36,000人。1年間の自殺者数と同じである。喜多方市の全住民が消滅し、ゴーストタウンと化した光景を思い浮かべてみよう。いかに異常な事態を迎えているかが分かる。
 もし、年間3万人が殺されるような戦争が発生したら、それは恐るべき悲惨な出来事として、世論は沸騰するだろう。
 しかし、マスコミは、自殺者3万人突破を、「長引く不況が自殺増加の原因だ」という言い方で片付けていないだろうか。
 ある作家は、この点に疑問を投げかけている。

「不況イコール自殺の増加、という分析は、どうも当たっていないような気がする。景気さえ回復すれば、自殺も自然に少なくなる、とは思えないのだ。人がみずから死を選ぶのは、経済や政治の問題だけではない。公共投資や、福祉政策の充実によって自殺が目に見えて減ると考えるのは、あまりにも人間の心を知らなすぎる見かただろう。
 だからこそ、いま、あらためて『人生の目的』などという野暮なことを考えてみたいと思うのである」

 政治や経済や福祉の力では自殺は減らない、まず、「人生の目的」を明らかにすべきだ、という指摘は、ズバリ的を射ている。野暮どころではない。最も重大なテーマなのである。
 当然、次に期待する言葉は、 「どんなに苦しくても、なぜ、生きねばならないのか」の答えであろう。
 ところが、この作家は、 「人生に目的はあるのか。私は、ないと思う。何十年も考えつづけてきた末に、そう思うようになった」 と書いている。知識人と言われる人の中に、同じような発言をする人が多い。
 しかし、よく考えてみよう。「人生の目的がない」とは、「生きる意味がない」と言っているのに等しくなる。
 では、世の知識人は、どのようにして生きろと、言うのか。
「私たちが選ぶもっとも自然な道は、あたえられた運命と宿命を、人生の出発点として素直に受け入れることだろう」
「耐えて、投げださずに、生きつづける。それしかない」
などと、「とにかく生きよ」の大合唱である。
 果たしてこれで、自殺を止めることができるだろうか。
 自殺者の、最大の苦悩は何なのか。いくつかの事例から考えてみたい。

自殺してはならない
どんなに苦しくても自殺してはならない

(2)波紋呼ぶ、江藤淳氏の自殺 病苦、老苦に負けてはおれぬ

 大江健三郎氏や石原慎太郎氏らとともに、日本の知的存在といわれていた文芸評論家の江藤淳氏が、平成11年7月、自殺した。
 江藤氏ら、知識人たちは、人道主義のもと、地球より重い生命の尊厳を訴え、「自殺してはならない。どんなに苦しくても生き抜けよ」と書き続けてきただけに、社会に大きな衝撃を与えた。
 芥川竜之介や太宰治の自殺にも冷徹な批評を加えてきた江藤氏である。
 それらの前言を覆し、自ら死を選んだ理由は何だったのか。
 遺書には、次のように記されている。

「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る6月10日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ」

 妻に先立たれた失意と、病苦が重なっての自殺であったようだ。
 おかしなことに、マスコミには自殺を賛美する論調が目立った。
「奥さんの後を追って死んだんだね。とっても美しい」(石原慎太郎)
「奥さまへのいたわりや、やさしさも生涯、深く貫かれ、本当に後を追うように逝かれたのですね」(瀬戸内寂聴)
 妻の後を追って自殺するのが美しいのだろうか。
 老苦や病苦に襲われたら、みっともない姿をさらす前に自殺するのが賢明なのか。
 一方では、「人命は地球より重い」といいながら、矛盾ではないのか。
 一般人の自殺は愚行として止められ、高名人の自殺は素晴らしいと賛美されたのでは子供も納得しないだろう。
 朝日新聞には、江藤氏の自殺に、400通の投書が寄せられたという。『江藤さんの決断』(朝日新聞「こころ」のページ編)という本にまとめられているが、その中から何通か紹介しよう。

 江藤さんの自殺が報じられた日に、私は都内のリウマチ専門病院に行っていました。リウマチのため何十年も身体のあらゆる関節がおかされ、毎日激痛と共に生きている私たちリウマチ患者に、江藤さんの「病苦は堪え難し」の遺書は、「では私達の苦しみは何なのよ」と叫びたいような気持ちになりました。(千葉県・主婦・62歳)

 江藤氏自死の報に接した時、心身耗弱のせいかと一瞬思った。しかし、二日後に公表された氏の実に明快な遺書を読み、これが「日本の知性」と称せられた人の発言かと、鉛が胸に沈殿するような気分を味わったものである。 「形骸と化した自己を処断する」のなら、同じ病状に苦しみ、懸命にリハビリに取り組んでいる幾多の人々を、江藤氏はどう見ておられたのだろうか。それらの人々を無視する発言ではないか。(東京都・女性・65歳)

 身体不自由になったことで、「生きる意味がない」と断じた江藤淳という人は、人生の意味をどこに見いだしていたのだろうか。(東京都・男性・80歳)

 人間が老いるということは、早かれ遅かれ、「形骸」に過ぎなくなることに他なりません。「形骸」に過ぎなくなることによって、かつての赫赫たる名声も名誉も、一瞬にして地に落ち、老醜の身を人目にさらすことが、「生き恥をさらす」ことになり、このことが「怖くて怖くて仕方がなかった」のではないでしょうか。(愛知県・大学教授・63歳)

 一般人の自殺には、声高に「死んではいけない」と繰り返すマスコミや評論家も、こと知的水準の高い人物の自殺となると、どうしてこうもだらしないのか。
  日本だけではない。ノーベル賞作家、ヘミングウェイ(米)やポスト構造主義の旗手と言われた哲学者、ドウルーズ(仏)など、知性を謳われた人物の自殺は、海外でも後をたたない。多くの人は彼らに対する尊敬と、自殺という悲惨な結末とのギャップから、「あの人が人生の敗北者であってほしくない」という願いにも似た気持ちで、結局は、その死を美化し、賛美するのではないだろうか。「苦しくても、生きねばならぬ根拠」を、今こそ我々は知るべきだろう。(富山県・会社員・40歳)

 江藤氏の自殺を賛美すれば、重病患者や身体障害者に生きる意味はないのか、と波紋が広がるのは当然だろう。
 重病を患い、苦しい治療が続いても、耐えねばならぬのはなぜか。
 身体に障害を持ち、不自由な生活を強いられても、負けてはならぬのはなぜか。
 年老いて、生き恥をさらすことになっても、早まってはならぬのはなぜか。
 借金地獄で倒産し、名誉も地位もすべて失っても、自殺してはならぬのはなぜか。
 これらの解答が「人生の目的」である。 「人生の目的」を知らずして、自殺を止めることはできない。
 言葉で言うのは簡単だ。 「死ぬな」 「耐えるんだ」「とにかく生きよ」……。
 しかし、いざ、逆境に直面すると、そんな根無し草のような信念はどこへやら。もろくも崩れ去ってしまう。
 江藤氏も、まさにこのパターンだ。日本の知性といわれるような人でも、「なぜ苦しくとも、生きねばならぬのか」という『人生の目的』を知らなかったのである。

あなたが仏教から学べるたった一つのこと


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