人生の目的

 もし、「人生の目的」がなかったら、大変なことになります。
 生きる意味も、頑張る力も消滅してしまうからです。
 なのに、 「人生に目的なんて、ないよ」 と、言う人が、意外に多いのです。
 本当にそうでしょうか。何か、大事なものを、忘れていないでしょうか。
 1度きりしかない人生、後悔しないためにも、まず、「なぜ苦しくとも、生きねばならぬのか」を考えてましょう。


◆第3章◆歴史の証言

 古来、数え切れぬ人々が、幸福を求め、悩み、苦闘し、生きてきた。
 しかし、生涯を振り返り、夢や幻のごとし、と述懐する人が、あまりにも多い。それは、家康と同様、「生きがい」を「人生の目的」と誤認した悲哀にほかならない。
「同じ石で2度つまずくものは馬鹿者である」 といわれる。
 先人の足跡を、単なる『物語』として眺めていては進歩も向上もないだろう。 「人生の目的」を探求する私たちは、歴史の証言に耳を傾け、同じ過ちを繰り返さぬようにしたい。

(1)夢のまた夢  豊臣秀吉の辞世

 貧しい農民のせがれから、一躍、天下人に上りつめた男、豊臣秀吉。世界史をひもといても、彼ほどの成功者は少ない。
 立身出世の鑑、庶民の憧れの的として、根強い人気がある(朝鮮半島では、秀吉は極悪人)。私たちが、「これがあったら幸福になれるだろう」と思っているものを、すべて獲得したような人物である。
 しかし、秀吉は、最期に意外な言葉を残している。
「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」
 夢の中で夢を見ているような、はかない一生だった、との告白。彼の辞世は、何を意味しているのだろうか。
 秀吉は、尾張中村(名古屋市)の貧しい農家に生まれたが、「武士になりたい」の野望に燃え、16歳で家出する。
 それまでは、毎日が田んぼと畑の往復で暮れていた。やがて自分も嫁をもらい子を育てるだろう。それで幸福になれるのか。周囲の大人は皆、苦しみにあえいでいる。このままの人生でいいのか。幸福をつかみたい……の自問が、若き情熱に火をつけたのだろう。

 秀吉は「武士」という地位を望んだ。貧苦の中で描いた幸福像は、地位 、名誉、金、財産に満たされた生活、と思ったに違いない。
 時は、戦国乱世。実力がものをいう。北条早雲、斎藤道三のように、一介の素浪人から身を起こし、一国一城の主になった例もある。秀吉の夢も大きく膨らんだ。
 織田信長の草履取りから出発。サル、サルとあざけりを受けながらも、次第に頭角を現し、出世していく。命懸けの働きが功を奏し、37歳で小谷城をもらう。名実ともに、一国一城の主である。秀吉にすれば望外の成功といっていい。早速、郷里から母と妹を城中に呼んでいる。信長の信頼を得て、秀吉の活躍は続く。
 しかし、主君・信長は、本能寺で、明智光秀に殺されてしまう。中国制覇に向かい、岡山に陣を布いていた秀吉は、急を知るや、いち早く兵を引き、暴風雨の中を駆け抜けて、亡君の仇を討った。天下取りへの野望がうごめくのである。
 翌年、織田家の重臣、柴田勝家を賤ヶ岳に破り、権力を握った秀吉は、日夜3万人を動員し、大坂城を築き始めた。
 官位も栄進を重ね、49歳で、念願の「関白」を射止めている。
 人間の欲にはきりがない。財産にしろ権力にしろ、増えれば増えるほど、さらに大きなことを望む。
 関白になった翌年、大坂城で、秀吉は、30余名の外国人を前に、豪語している。 「わしは、いずれ高麗(朝鮮)、明国(中国)を征服するため、海を渡る。国内の巨木をことごとく切り倒し、2,000艘の船を造り、大軍を乗せて押し渡るのだ」
 武士を目指し、家出した貧農の子が、一国一城の主となり、時流に乗って天下の主へと上りつめた。次は、唐、天竺へと、野望は尽きない。
 事実、2度も朝鮮半島へ大軍を送り、非道な殺戮を繰り返している。

 求めても、求めても満足しない心、一時の満足は、さらに大きな欲望を生む。秀吉は、人間の本性を赤裸々に見せている。五欲に追い回され、あくせくしている我々の姿と、重なるところがないだろうか。
 しかし、欲望は無限だが、肉体には限りがある。有限な命で、限りない欲を満たすことなど、不可能である。
 では、秀吉は、どれほどの財を持っていたのか。
 彼の築いた大坂城は、総面積100万坪を超えていた。天守閣の瓦や壁に惜しげもなく金箔をほどこした黄金の城であった。城内には「黄金の茶室」があり、天井、壁、柱、敷居まで、すべて金。釜、茶杓、茶碗なども黄金で造られていたという。
 この茶室を目にした大名は、書状に、こうしたためている。
「すべて金で輝き、障子の桟までも黄金であった。その見事さは言葉に尽くせないくらいだ」
 また、京都には華麗壮大な邸宅「聚楽第」を築いている。銘木、名石を広く集めて造られ、大坂城をしのぐ「黄金の城」といわれた。
 多くの金山、銀山を自由にしていた秀吉は、 「今や日本は、わしの意のまま。万とぼしからず。金銀をやたらたくわえておっても、用いざれば石瓦。皆のものに、ばらまいてくれよう」 と、うそぶくほど財があった。
 実際、天正17年5月20日、聚楽第において「金くばり」をやっている。黄金4,900枚、銀21,000枚……総額355,000両を、主だった臣下にばらまいた。

 秀吉が生前、息子・秀頼に遺産として与えた金銀目録によれば、大坂城の蔵には、黄金9万枚、銀16万枚を蓄えられていたという。
 こんな逸話もある。
 ある時、秀吉がかわいがっていた鶴が、飼育係の不注意から、空高く舞い上がって姿を消してしまった。
 打ち首は免れないと、覚悟してお詫びに参上した飼育係に、秀吉は言ったという。
「鶴は外国まで逃げたのか」
「とてもとても、日本国より一歩も出ることはありません」
「それなら案ずるな。日本国じゅうがわしの庭じゃ。なにも籠の中に置かなくとも、日本の庭におればよい」
 なんという太っ腹。マイホームのわずかな土地でさえ思うようにならぬ一般人とは比べ物にならない。
 秀吉はまた、各地から美女を集めている。正室「ねね」の外、側室が6人。1593年のフロイス記録文書によれば、「秀吉は、後宮に200人以上の女をたくわえている。連れてきた女は、1日か2日、手元におき、飽きると追い出す。気に入った者は長く抑留しておく」とある。
 まさに「わしの意のまま、万とぼしからず」、欲しいものは何でも手に入れ、好き勝手に振る舞っている。
 しかし、威勢を張っていた秀吉も、聚楽第の湯殿や便所にまで隠し堀を引いて舟を浮かべ、いつ襲われても脱出できるようにしていたという。
 また、豊臣政権を脅かす最大勢力、徳川家康には特に神経を使い、妹を嫁がせ、母を人質にまで出している。
 少年時代の秀吉は、裸で、どこにでも寝転んで平気であったが、権力を握り、天下を取ると、得意の絶頂でありながら、内心は戦々恐々としていたのである。
 人は、幸福を得たら、いつまでも離したくない、と願う。しかし、現実には長続きしない。いや、頂上まで上れば、あとは落ちるしか道のないことを、知っているがゆえに、不安、苦悩はつのるのである。
 秀吉は、大陸への野望半ばにして病没した。62歳であった。
 立身出世の夢を果たし、思うままに振る舞った人生を回顧して残した言葉が、


「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」


である。 「露」とは、早朝、葉の上につく水滴である。太陽が昇ると、瞬く間に蒸発し、どこに露があったのか、跡形も残らない。
「難波」とは、自分が威勢を張った大坂のことである。
 天下を統一した、関白になった、大坂城を造り、聚楽第を築いた、金と女にたわむれて遊んだ……、今から思えば、朝露が消えるような、アッという間の一生だったな……。夢の中で夢を見ているような、はかないものであったことよ、と泣いている。

「おれはいったい、何をしてきたのか。思い出など過去のこと。切ない、むなしい」 という心情が伝わってくる。
 スケールが大きいか小さいかの違いだけで、私たちも、やがて同様に、思い知らされる時が来る。
 私たちが、生涯、どれだけ全力で地位、名誉、金、財産、享楽などを追い求めても、秀吉の何十分の一、何百分の一にもならないだろう。
 秀吉でさえ「夢のまた夢」なら、私たちには「夢のまたまた……夢」と、「また」がいくつつくか分からない。これらは、どこまで求めても完成のない「生きがい」だからである。
 秀吉の辞世は、「人生の目的」は、これら「生きがい」のほかにあることの明証である。

あなたが仏教から学べるたった一つのこと




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