平凡な生活のまどろみが破られ、愕然とさせられたとき

1 月 15, 2010 on 11:20 am | In 社会 |

「ひとは、なんのために生きるのか。
平凡な生活のまどろみが破られ、愕然とさせられたとき、
この問いに真剣な解答が迫られます」

少し前に、このブログに書かれていましたが、1月12日、親鸞会の法輪閣で、
このテーマについて、法友と信心の沙汰をしました。

「主人を40歳で亡くしました。それが元旦で……。
それ以来、正月を迎えても、おめでとうとは言えなくなりました」

「去年、親戚が他界しました。胃ガンの手術が成功したと喜んでいたのに、
4日目に熱が出て、それから2週間で逝ってしまった」

など、皆さん、〝平凡なまどろみが破られた〟体験を語られました。

その中で、心に残ったのは、

「脳の手術をしなければならない、となった時、
自分だけ違う世界にいるみたいでした。
ほかの人は普通に、生活しているんだけれども、
ずーっと遠くにいるようで。
世界が変わってしまった」
という発言です。

以前、『わたし、ガンです ある精神科医の耐病記』(頼藤 和寛・著)
という本を読んだのを思い出しました。
精神科医である著者は、52歳でガンの宣告を受けた心境を、
克明につづっています。

〈これまで平気で歩いてきた道が実は地雷原だったと教えられ、
これから先はもっと危ないと注意されたようなものである。
それでも時間の本性上、退くことはおろか立ち止まることもできない。
無理矢理歩かされる。
次の一歩が命取りなのか、あるいはずいぶん先のほうまで
地雷に触れないまま進めるのか。いずれにせよ、生きて地雷原から
抜け出ることだけはできない〉

死を意識した目には、周囲が全く違って映じたと、この著者も
言っていました。

〈街を歩いても、すれちがう人々はたいていわたしより長く
此の世にとどまるだろう人々である。これを思うと
一種の疎外感を禁じ得ない〉

〈(死期を)ある程度知ってしまった者と「知らずにいられる」者との間には、
たぶん人種やカーストの違い以上の、いや、ひょっとすると動物の種の違い以上の
隔たりがあるのではなかろうか〉

と感じるほどの変化だったそうです。
そして、考えたのは、この先、どう生きればよいのか、ということでした。

やがて、はぎ取られる〈人生の詰め物〉(地位や金銭など)で時間を埋めるだけなら、
意味はない。人間に生まれた真の目的を知らぬ著者は、死ぬまでにせねばならぬことなど皆無と感じ、書いています。

〈つまり、わたしはいつ死んでもいいのである。
いや、これまでだって絶対生きてこなければならなかったというわけではない。
妻子の生活はどうなる、と言われても、それなら独身時代に
死んでおけばよかったのだ。親はどうなる、と言われるのなら
(母が)流産してしまうか、赤ん坊の頃に死ねばよかった。
すぐ次のを作ることもできただろうから問題はなかろう。
(略)
わたしに必要なのは、自分が死ぬまでに仕上げておかなくてはならないものが
あると勝手に思い定めることだけである。
生きる理由というのは外を探してもどこにもない〉

死を前にしては、貧富、才能など、一切の差異は無きに等しいではないかとも
感じて、

〈してみると生前の大騒ぎは畢竟、一場の喜劇に過ぎなかったのだ〉

と書いています。

何のために生きてきたのか。
うかうかと過ごしてきた五十余年を悔いて、

〈寿命の長短にかかわらず酔生夢死を
どう防ぐかがわれわれ全員の課題である〉

と結論づけていました。

頭脳明晰な精神科医でも知りえなかった大問題「なぜ生きる」。
「われわれ全員の課題」の解答を
平生に知り得た親鸞学徒は、本当に幸せだと語り合いました。

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