決して色あせない光
5 月 21, 2008 on 1:42 pm | In 社会 | No Comments
歌手の浜崎あゆみは、今年デビュー10周年を迎えます。
「平成の歌姫」と呼ばれていましたが、左耳の聴覚をほとんど失っていると告白し、話題になりました。
そんな浜崎あゆみが人気絶頂期に、雑誌でこんなことを語っていました。
掲げた目標があって、今までその目標だけを見てずっと走ってきた。
そこに向かっているころは、その目標はすごいキラキラ輝いていて、現実離れしたもの、もう手の届かないものだったんだけど、そこにたどり着いてしまったら、ただの現実の延長だった
『なぜ生きる』には、次のように書かれています。
来てみれば さほどでもなし 富士の山」と詠まれるように、遠方から眺めれば秀麗な山も、登ってみると空き缶や散乱するゴミで、失望させられます。私たちの描く「目標」も、遠くにあるときは素晴らしく見えますが、「やった!」とたどり着いた瞬間、何かが心に忍びよります。
ようやくかなった夢なのに、「得られたものはこれだけか」、ガッカリした体験はないでしょうか。皮肉なことに、苦労を重ね、大きな目標を達成したときほど、「私は何をやっていたのだろう」「こんなことに苦しんでいたのか。もっと何かがあるのでは……」
拍子抜けしたような、奈落の感覚に一転しやすいのです。
(中略)
目標に到達した満足感は一時的で、やがて単なる記憶に変色します。
それに対して「人生の目的」成就の満足は、「色あせること」も、「薄れること」もないところが、全く違うところです。
「色あせること」も、「薄れること」もない本当の幸福を教えられた親鸞聖人の教えは、どんな時代になっても色あせず、人類を照らし続ける光ではないでしょうか。
(R)
持つべきものはよき友
5 月 19, 2008 on 9:15 am | In 日記 | No Comments
大前研一著『時間とムダの科学』に、こんなことが書いてありました。
人間が変わる方法は3つしかない。
1つは時間配分を変える。
2番目は住む場所を変える。
3番目はつきあう人を変える。
この3つの要素でしか人間は変わらない。最も無意味なのは『決意を新たにする』ことだ。
「新たな決意で頑張るぞ!」
「今日から心を入れ替えよう!」
と思っても、三日坊主でなかなか続かず、悩んでいる人は、「なるほど」とうなずくのではないでしょうか。
自分の心を変えるのがいちばん大事ですが、なかなか自分で自分の心をコントロールするのは難しいことです。
だからこそ、どんな友達とつきあうかという「縁」が大切なのですね。
蓮如上人は『御一代記聞書』に、次のようにおっしゃっています。
「俗典にいわく、『人の善悪は近づき習うによる』と。また『その人を知らんと思わば、その友を見よ』といえり。『善人の敵とはなるとも、悪人を友とするなかれ』という事あり」
善人なら、ケンカしても善い影響を受けますが、悪人と仲良くすれば、知らず知らず、悪い影響を受けるものなのでしょう。
友達の大切さを知らされました。
(R)
「後期高齢者」改め「長寿医療制度」?
5 月 17, 2008 on 9:21 am | In 社会 | No Comments今、テレビや新聞で盛んに報じられている「後期高齢者医療制度」を、厚生労働省は、「長寿医療制度」と改め、次のように、定義しています。
長寿医療制度は、75歳以上の方々に「生活を支える医療」を
提供するとともに、長年、社会に貢献してこられた方々の医療費
をみんなで支える「長寿を国民皆が喜ぶことができる仕組み」です。
(http://www.mhlw.go.jp/bunya/shakaihosho/iryouseido01/info02d.html)
この制度に対し、
「75歳過ぎたら、もう死んでくれ、ということか」
「『病気になったら点滴を希望するかどうか』とかアンケートがとられるんですよ。
『あなたは延命しますか?』と問われるわけです」
「これは『姨捨山』の入場券。〝末期〟医療制度の説明会だ」
など、抗議・批判の声が絶えません。
中には、保険料が下がる人もあるようですが、丁寧な説明もなく、
〝75歳を過ぎて、保険料が年金から天引きされることになった〟
と聞けば、「長生きするなということか!」と、思う人が多いのもうなずけます。
案内する立場の、市町村の担当者でも「事前に何も聞いていない」とか「聞いたけれど全く理解できなかった」などと言う人もあるようです。
今のままの医療制度で、100パーセント破綻するのなら改革は必要でしょうが、議論や説明があまりにも足りないのでは?と思います。
こんな話を思い出しました。
〜ああ、おれも子供に門番にさせられることがあるのか
バラナ国の悪法〜〜昔、インドのバラナ国に悪法があった。
男が60歳になると、子供から1枚の敷物をもらって、その家の門番にならねばならぬというのである。
その国に、女房に早く死に別れ、極貧の中を男手一つで、二人の子供を育て上げた男がいた。
もう彼も、60歳である。
まるで、ひとりで成長したように思っている長男は、〝敷物を探して父に与え、門番にせよ〟と弟に言いつけた。
孝行な次男は、途方に暮れたが、物置小屋から1枚の敷物を探し出し、それを二つに切った。
「お父さん。まことに申し訳ありませんが、兄さんの言いつけです。今日から家の門番になってもらわねばなりません」
あふれる涙を押さえながら、その1枚を父に与えた。
「おまえはなぜ、その敷物全部を与えないのか」
兄は弟のやることが、どうも腑に落ちない。
「兄さん、家にはそんなたくさん敷物はありません。たった1枚しかないものを、全部お父さんに使ったら、後で要るようになったら困るじゃありませんか」
「後で必要な時に困る?そんな物、だれが使うのかい」
兄は、ますます不審に思う。
「だれでも、いつまでも若いのではないのです。もう1枚は兄さんの分ですよ」
「なに!おれがそんなものを、使うことがあるというのか」
「それは兄さんが60になった時です。
敷物がなかったら、兄さんの子供が困るじゃありませんか」
「ああ、おれも子供に、門番にさせられることがあるのか」
愕然として非道に気づいた兄は、弟とともに立ち上がり、この悪法打破に成功したという。
「今日は他人の身、明日はわが身」といわれても、よもやよもやとうぬぼれて、我々は確実な未来さえも、知ることができないのである。
だれにでも確実に、「老い」は やってきます。
自分一人で生きていけなくなる未来は、必然といってもいいでしょう。
その時、だれから、どのような援助を頂いて、生きるのか?
そうまでして、生きねばならない、理由は、あるのか?
一体全体、何のために、命を延ばすのか?
かえすがえすも、これは、私たち一人一人の大事な問題だと知らされます。
(T)
自殺の増加に浄土真宗は
5 月 14, 2008 on 1:05 pm | In 社会 | No Comments
自殺調査:浄土真宗本願寺派が1万寺院対象に
硫化水素自殺が多発するなど、自殺問題が深刻化する中、浄土真宗本願寺派が、同派の全寺院(約1万カ寺、僧侶約3万人)を対象に、自殺問題に関する実態調査を始めました。
まずは自殺者の葬儀や自殺相談、遺族支援をした経験などを調べ、今後は自殺者の葬儀で特別な法話をしたり配慮したこと、あるいは苦慮したことなどの具体的な体験も求めていくそうです。
自殺者が、10年連続、年間3万人を超える中、宗教者として僧侶が取り組めることはないかを検討するとのこと。
「自殺予防・防止に僧侶がかかわることができると思うか」についても聞くそうです。
人生の目的をハッキリ教えられた方が親鸞聖人ですから、聖人のみ教えを説く立場の人こそが、最も素晴らしい貢献ができるはずですが、果たしてその役割は果たされているのでしょうか。
親鸞聖人ほど、人生の目的を明示し、その達成を勧められた方はありません。
「万人共通の生きる目的は、苦悩の根元を破り、“よくぞこの世に生まれたものぞ”の生命の大歓喜を得て、永遠の幸福に生かされることである。どんなに苦しくとも、この目的果たすまでは生き抜きなさいよ」
聖人、90年のメッセージは一貫して、これしかありませんでした。
自殺を考えている人に、聖人のメッセージが届いてほしいと念じずにおれません。
(R)
(参考)
>>自殺を止められた釈尊の譬え話
たい焼き つぶあんたっぷり
5 月 12, 2008 on 2:43 pm | In 聞法ドメイン | No Comments
先週の同朋の里の大掃除、昼休みでのこと。
滋賀県から、ジーパン姿で掃除にやってきた50代の親鸞会会員が、サンキュー前の移動販売車「笑笑(ケタケタ)」でたい焼きをゲット!
「これは、うまい、うまい」と連発。
「この、生地がトロッとしているのがいいねえ」
「いや、小豆もうまいぞぉ」
と、独り言が止まりません。
あっという間に、平らげてしまいました。
そして、「よし、もう一つ買って、持って帰ろう。あとで食べよー」と、とってもゴキゲン。
その様子を、そばで見ていた人が、
「たい焼き、おいしそうねえ。サンキューでおそばを食べたあとだけど、私も……」
とついつい、買ってしまったようです。
甘さ控えめ、十勝産のつぶあんたっぷり、しかも無添加だそうですね。
焼きたては、特にホカホカで、おいしさアップです。
続いて、80代のおばあさんも、ご注文。三重県から来られた方でした。
このたい焼き、最初から焼くと、10分ほどかかるので、親鸞会館ご法話のあとなど、帰りを急ぐ人は、「10分かかるのね。今ちょっと時間ないわ。残念ね」と、後ろ髪引かれる思いで去っていく人もあるようです。
4月の行事の時、岐阜から来た親子も、そうでした。
私は、少し先に注文していたので、「これ、どうぞ!」と渡すと「え、そんな、いいんですか?」と言われながらも、快く、受け取ってくれました。
後日、「すごくおいしかったわ」と聞き、こちらもうれしくなりました。
老若男女に愛されるたい焼きは、偉大です……
(T)
喜びの声があふれる親鸞会会員の交流会
5 月 9, 2008 on 11:33 am | In 参詣者の声 | No Comments
新緑のすがすがしい昭和の日、親鸞会館で富山県親鸞会会員の交流会がありました。
安全で安心、とってもおいしい「あんしん弁当」と、サンキュー特製、上品な甘さの「シュークリーム」を頂きながら、最近仏縁を結ばれた方々の紹介に耳を傾けました。
トップバッターで発表されたのは、Hさん。
なんと40年も前に、親鸞会最初の聞法道場である高岡市前田町の会館に参詣されたことがあったといわれます。(参考:高森顕徹先生と親鸞会の50年)
世間事に追われ、ご縁が遠のいていたそうですが、親鸞会のことは、いつも心にあったとか。
幸い、チラシを縁に再び参詣されるようになり、今年1月に親鸞会会員になられました。
「去年の今ごろと、今年とは雲泥の差です。今、心は喜びに満ちています!」
と元気よく語られたのが印象的でした。
Mさんは、高森先生が監修なされた『なぜ生きる』に心打たれたそうです。
「何のために生きるのか、いろんな本を読んだけど、『なぜ生きる』が1冊あれば、ほかの本を読む必要ないですね」
Aさんは、二千畳に誘われた時、「仕事の草むしりがあるからね〜」
とあまり乗り気ではありませんでした。
でも、4月のご法話に参詣されてみて、誘ってくれたOさんに、
「ごめんなさい。こんなお話聞けるなんて、草むしりなんて、問題じゃなかった!!」
と感謝しきり、だそうです。
こんな喜びの声、続出の交流会でした。
「一度、親鸞会館へ参詣されると、あなたの宗教観・仏教観は一変し、これが本来の仏法なのか、浄土真宗なのかと知らされることでしょう」
このお言葉は本当だなあ、と改めて知らされた一日でした。
(E)
「千の風」がはやるワケ
5 月 7, 2008 on 5:09 pm | In 社会 | 1 Comment
駒沢大学名誉教授の佐々木宏幹氏は、中外日報に、<日本人の「あの世」>と題して、次のように述べています。
調査してみると、日本人の「あの世」イメージは決して一定不変ではない。
死者とくに異常死を遂げた人は死場所におり、一般には墓所におり、家の仏壇におり、寺の位牌堂におり、さらに十万億土の浄土、仏国土、仏界にいる。
多くの人びとは「あの世」を一カ所に限定することなく、コンテクストにより、多重・多様な「あの世」いずれかに関わっている。
「千の風」が流行するゆえんである。
したがって日本人の「あの世」イメージは「あの世観」よりも「あの世感」と表現する方が相応しい。
このことは仏教を含む日本宗教についても当てはまるだろう。
それは二者択一の手法では理解できない領域である。
「千の風になって」とは、2007年度の年間オリコン順位1位を獲得した、テノール歌手・秋川雅史さんのシングル曲です。
♪私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています♪
「この歌詞に励まされた」と言う人が大勢いるのを、佐々木教授は、
多くの人びとは「あの世」を一カ所に限定せずに、
多重・多様な「あの世」のいずれかに関わっている。
その多重・多様な感覚と
「千の風になって」の歌詞が合うからだ、
と分析しているようです。
大切な肉親や友人と死別した時、「風になって自分を見守っていてくれる」と聞けば、慰められ、心が救われるように感じます。
それで、「死に対するイメージが変わった」という人もあるのでしょう。
でも、「励まされる」「慰められる」といっても、ほんの一時的なものではないでしょうか!
私たちの感情によって、「あの世」が、クルクルと変わるものではないはず……。
「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
と、禅僧・一休は歌っています。
老後のない人はあっても、死と無関係な人は一人もありません。
一日生きたということは、それだけ死に近づいたということ。
世界の時計を止めてもそれは、止まらない。
死ねば、どうなる?
死んだ後は有るのか、無いのか。
有ればどんな世界なのか。
楽しいところなのか、それとも……、やっぱりハッキリしない、分からない。
この後生暗い心を、仏教では「無明の闇」と説かれ、これ一つが苦悩の根元なのだと、親鸞聖人は断定されています。
(T)
黄昏の人生に
5 月 5, 2008 on 11:10 pm | In 日記 | No Comments
退職後の生き方を考える本が相次いで出版されていますが、その中の1冊『60歳からの「生きる意味」』(森村誠一・堀田力著)に、次のように書かれています。
60歳を迎えると会社を定年退職し、突然に自由な時間が有り余るほどできる『余生』を手にして、そこではじめて『自己の存在証明』について考えるようになります。
『自分は何のために生きてきたのか』と。
『あなたは何のために生きているのですか?』と聞かれて、『私は社会に役立つために生きています』とはなかなか言えません。
現実にだんだんと役立たなくなるのですから、それでは答えにならない。
社会に役立たなくなっていながら、なおかつ存在しているのはなぜか
また「日本人が年を取ると寂しくなるのは、『自己の存在証明』が認められないことと関係しているのではないかと思います」とも言っています。
「自分は何のために存在するのか」分かっていてこそ、何歳になっても、たくましく前進できるのではないでしょうか。
「なぜ生きる」を説かれた仏法は、どんな社会になっても、すべての人がいちばん知りたいことが教えられていると思わずにおれません。
(R)
嫌で働いたことは一度もない
5 月 3, 2008 on 5:38 pm | In 社会 | No Comments
ある美容院の店員さんの話。
「最初の3年は寮生活。朝は7時半に出勤して、営業時間が終わっても、勉強会やら何やらで、終わるのは早くて22時。平日は仕事しかしてない感じ」
「休日も、ボランティアで、介護施設に出掛けたり。でも、だれも文句は言わないよ」
こんなところに「働きマン」がいたか、と思った。
安野モヨコ『働きマン』第1話のラストは、ご記憶の方も多いだろう。
「オレは『仕事しかない人生だった』そんなふうに思って死ぬのはごめんですね」
とぼやく仲間に、
「それもある それも多分あって 確かにそのとおり でも」
と、主人公が叫ぶ。
「あたしは仕事したな——って思って死にたい」
恐らく『働きマン』のメッセージは、このセリフに凝縮されているのだろう。
そして、みんな感動する。共感する。こんなふうに働きたい、生きたいと願う。
しかし現実には、「見果てぬ夢」とでもいうのだろか。
先の店員さんも言う。
「でも、それは結婚するまでのことで」
ところが親鸞聖人の教えによって「人生の目的」を知らされた人には、全く別の、悔いなき人生があるようだ。
「まさに仏法一筋、ものすごい方でしたよ」と友人が口をそろえるTさんは、昭和30年代から親鸞会とご縁があった方である。
2年前、86歳で亡くなられた。
朝早くから田んぼや畑仕事に出掛け、聞法のための時間をやりくりしてきた。
娘のYさんは、
「田植えの女大将といわれるほど、たくましい母でした。あれこれと種をまいては、鎌を持ち、鍬を手に、徹底的に草を刈る。よく手伝いをさせられましたが、厳しく厳しく叱咤される毎日でした」。
82歳の時、そのTさんが畑仕事の最中に体調を崩された。
「働きすぎたね」と声をかけるYさんに、
「嫌で働いたことは一度もない。仏法聞こうと思って一生懸命働いたんや」
と言い切った。
Yさんは感動で涙がこぼれたという。
その後も、Yさんの献身的な介護で、毎月の親鸞会館参詣は、欠かさなかった。
果たして我々は、
「仕事しかない人生だった」
となるか、
「嫌で働いたことは一度もない。仏法聞こうと思って一生懸命働いたんや」
となるか。
生きる意味を知れば、生きることも働くことも、すべてが報われる。
(M)
情けは人のためならず
5 月 2, 2008 on 3:25 pm | In 社会 | No Comments
文化庁が2001年1月に行った「国語に関する世論調査」で、「情けは人のためならず」ということわざの意味が二者択一で問われました。
(ア)人に情けをかけておくと,巡り巡って結局は自分のためになる
(イ)人に情けをかけて助けてやることは,結局はその人のためにならない
正解は(ア)ですが、正解率は47.2%でした。
60歳以上の回答者の正解率は65.2%で、年齢が下がるにつれて正解率は下がる傾向にあるそうです。
ところで、本当に「人に情けをかけておくと、巡り巡って結局は自分のためになる」のでしょうか?
インターネットにはゴミのような情報があふれていますが、自分が苦労して開発した技術やプログラムなど、貴重な情報を無料で提供している人もいます。
そんなもったいないことをしないで、市場で売れば大儲けできるのに、と思われますが、自分の能力は自分一人が儲けるために使う、という狭い考えは、結局は損をする時代になりつつあるようです。
「株式会社はてな」を創業した近藤淳也著『「へんな会社」のつくり方』に、こう書かれています。
自社サイト『はてな』の運営に関しても、『こういう問題が出ていますが、こんな風に考えています』といった情報を出せば出すほど、多くのユーザーの方々から、『その問題の本質はそこではなくて別の部分にあるんだよ』とか、『その方法は一部のユーザーしか満足させられないぞ』といった指摘をたくさんいただきます。
中には、はっとするような新鮮な視点が含まれていて、危うく一部のユーザーに不利益を与えるような仕組みを作ってしまうところだった、という経験もしています。
こういう経験を繰り返していると、インターネットは知恵を預けると利子をつけて返してくれる銀行のようなものだ、という感じがしてきます
インターネットに、他の人に役立つ情報を流すと、巡り巡って、利子をつけて返ってくるのだそうです。
「自分さえよければ」という利己主義では、ビジネスでも成功しないようですね。
(R)
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