『にじいろのさかな』(自利利他の精神)
12 月 7, 2009 on 11:04 am | In 浄土真宗 | No Comments
息子の誕生日に、離れて暮らす両親が絵本を送ってきてくれました。
タイトルは、『にじいろのさかな』(マーカス・フィスター作・絵、谷川俊太郎訳)です。
表紙には、虹のような、いろいろな色のうろこをもった魚が一匹。絵本には珍しく、キラキラ光る銀色も使われています。
「わーっ、きれい!」
歓声を上げる息子と一緒に、読み始めました。
・・・・・・
にじいろの魚は、銀色の光るうろこを何枚も持っていた。
周囲の魚にうらやましがられ、「その光るうろこ、1枚くれない?」とねだられる。
でも、にじいろの魚は、威張って、あげようとはしなかった。そのうちに、魚たちは相手にしなくなり、一人ぼっちに。
かしこいタコのアドバイスにしたがって、光るうろこをほかの魚に分けてやった。1枚、また1枚……。
どんどん分けているうちに、にじいろの魚の光るうろこは、1枚だけになってしまう。
でも、心は、幸せな気持ちで満たされた。
・・・・・・・
仏教でいう、「自利利他(じりりた)」に通じる内容でした。
他人を利するままが、自分も利することになる。
何かを独り占めにするよりも、他人に分け与えたほうが、自分も幸せになれる。
他人に分けると、自分の取り分が減ってしまうから、損したように思うかもしれませんが、そうではない。逆に、より幸せになれるのだと仏教では、説かれています。
読み終わって、子供が尋ねてきました。
「みんなにあげると、幸せになれるの?」
「そうだよ。みんなに分けてあげたほうが、幸せになれるんだよ」
「じゃあ、ボクも分けてあげよう!」
今までは、「これ、全部ボクのだよ」なんて、欲張っていた息子でしたが、翌日、泣きべそをかいていた友達に早速、自分の好きなお菓子を分けてやっていました。
泣き止んだ友達の笑顔を見て、息子もニコニコ顔に。
「分けてあげると、うれしくなるでしょう?」
「うん。うれしくなった。幸せな気持ちになった。本当だね」
子供心に幸せの法則を刻む絵本を贈ってくれた両親に感謝!です。
苦しみが転じて喜びとなる不思議
8 月 5, 2009 on 1:14 pm | In 浄土真宗 | No Comments
阿弥陀仏に救われると、煩悩(苦しみ)がそのまま菩提(喜び)になる、不思議な世界に生かされると、親鸞聖人は教えられています。
そんなことはとても信じられないことですよね。
しかし考えてみると、普通はイヤなことが、ある状況下ではものすごくうれしいことになる、ってことが実際あります。
7月20日、ヤンキースの松井がサヨナラホームランを打ちました。
ホームベースで大歓迎される松井。
ヒーローインタビュー中に、チームメイトにクリームを顔にべったり塗られてしまったのです。
といっても、これはヤンキースではお決まりの儀式。それを松井は忘れていたために、いきなり顔面にクリームを塗られた形になりました。
さて、その時の松井のリアクション、コメントはいかに。
松井秀、今季初のサヨナラ弾!「完璧でした」 (SANSPO.COMより)
米大リーグ、ヤンキースの松井秀喜外野手は20日(日本時間21日)、ニューヨークでのオリオールズ戦に「5番・指名打者」で先発出場し、ライトスタンドへ弾丸ライナーでサヨナラ本塁打を放った。試合は2−1でヤンキースがサヨナラ勝ちした。
※サヨナラホームランの動画http://mlb.mlb.com/media/video.jsp?content_id=5646923
試合後のインタビュー中にはチームメイトのバーネットからクリームを顔に塗られる歓迎も。「こういうことなら、毎回味わってもいいですね」と笑顔で話した。
もし、街を歩いている時や、駅のホームで電車を待っている時、突然だれかから顔に生クリームをべったり塗られたら、めちゃくちゃ腹が立つでしょう。
ところが同じことを、サヨナラ弾を放った直後の、最高の気分の時にされると、「毎回味わってもいい」ほどうれしいことになってしまう。
ダイヤモンドをゆっくりと一周して、ホームベースに戻ってきた時、チームメイトが覆いかぶさってきてたたかれまくる痛みも、松井にはすべて喜びになっているはずです。
阿弥陀仏に救われた絶対の世界は、とても言葉で表せるものではありませんが、なんとか知らせたい思いから、親鸞聖人は氷と水の関係に例えて次のように教えられています。
「罪障功徳の体となる 氷と水のごとくにて 氷多きに水多し 障り多きに徳多し」 (『高僧和讃』)
「阿弥陀仏に救われると、欲や怒りの煩悩(罪障)の氷が解けて、幸せよろこぶ菩提の水(功徳の体)となる。大きな氷ほど解けた水が多いように、極悪最下の親鸞こそが、極善無上の幸せ者だ」
シブ柿のシブがそのまま甘味になるように、煩悩(苦しみ)一杯が功徳(幸せ)一杯となる、すごい確信に満ちています。
苦しみがそのまま幸せになる、そんな不可称・不可説・不可思議な世界なのです。
(G)
「横」という字は、かわいそうな字?
6 月 25, 2009 on 1:41 pm | In 浄土真宗 | No Comments
読売新聞「編集手帳」の視点の鋭さ、幅広い蘊蓄、伏線を回収する絶妙なオチのつけ方には、いつもうならされています。
6月5日は、「横」という”かわいそうな”字についてでした。
「横」というのはかわいそうな字で、横領、横流し、横恋慕…好ましからざる言葉に縁がある。日本郵政の人事をめぐる鳩山邦夫総務相と西川善文社長の確執も、「横」の押しつけ合いと言えなくもない◆重い不祥事にけじめをつけないまま続投の意思を固めた西川氏を鳩山氏は「横暴」の人と見、認可権限を盾に人事に口を差し挟む鳩山氏を西川氏は「横車」の押し手と見ているのだろう◆経営責任の説明もなしに再任の流れが出来上がったのは多くの国民に納得のいきかねるところで、筋論では鳩山氏の押す車に相応の理がある◆与党内の続投擁護論も分かりにくい。「三顧の礼で迎えた人をクビにできない」という。神聖にして侵すべからざる経営者というのも珍しい。「“民営化の象徴”西川氏が去れば、民営化路線が崩壊してしまう」という。一人転べば皆転ぶとは、何とも頼りがいのある路線である◆鳩山氏は大臣の職を賭す覚悟という。麻生首相はこれまで、「総務相が適切に判断すると思う」と涼しい顔をしていた。混迷の根は「横暴」や「横車」ではなく、首相の「横着」にあったのかも知れない。
「横」という字を含む「好ましからざる」熟語を幾つも出されて、今の郵政人事のゴタゴタを批判し、最後は首相の「横着」をとがめるという着地。お見事です。
さて実は、親鸞学徒にも「横」という字はなじみ深く、「横超(おうちょう)」「横截(おうぜつ)」など、よく聞きます。
意味は「他力」ということ。
「他力」といっても、一般に誤解されているような、「他人の力」ということではありません。
「他力」の語源は仏教ですから、仏教の言葉遣いに従いますと、「阿弥陀仏のお力」のこと。
親鸞聖人は、
「他力というは如来の本願力なり」
と、『教行信証』に明言されています。
「すべての人を、絶対の幸福に救う」と誓われている「阿弥陀如来の本願力」のみを、「他力」と言われ、これを一字で「横」とも表されるのです。
ですから、親鸞聖人の書かれたお聖教(仏教の本)に、「横に」とあれば、「阿弥陀仏のお力によって」と理解して間違いありません。
先ほどの「横超」「横截」いずれも、「阿弥陀仏のお力によって、この世から未来永遠の幸福に救い摂られること」を言われた言葉です。
親鸞学徒には、「横」は”かわいそうな”"好ましからざる”字どころか、阿弥陀仏の不思議な威神力を表す文字なのですね。
(G)
仏教は「死人の後始末」? 最近の墓地・墓石の傾向
1 月 12, 2009 on 11:02 am | In 浄土真宗, 社会 | No Comments
昨年12月25日付の「朝日新聞」に、「墓地に墓石」といった形にこだわらない人が増えている、という記事がありました。
遺骨を粉状にして、海などにまく「自然葬」。
さらしに包んだ遺骨を土に埋め、墓石の代わりに、苗木を植える「樹木葬」。
遺骨を粉にして固め、名刺大のメモリアルプレートにしたり、専用に造られた焼き物やガラス瓶に遺骨を入れて「手元」に置いておく人もあると紹介されていました。
いろいろな形態があるものですね。
同じ欄に、「私の場合」として、大阪の僧侶からの以下の投書が掲載されていました。
お釈迦様は亡くなる時に僧侶に「お前たちは葬儀にかかわってはいけない」とおっしゃっています。
お釈迦様の教えに葬送儀礼はありません。
各宗派の開祖は「僧侶が葬儀にかかわり生計を立てよ」と言わず、逆に厳しく戒めています。
僧侶が葬儀に深くかかわるようになったのは江戸時代初期の「天草・島原の乱」からです。
現在、音を立てて崩れるがごとく檀家離れが全国で進んでいるのは、僧侶がいわゆる檀家制度にあぐらをかき、お布施と称した金銭を受け取るなど、本来の姿を忘れたからではないでしょうか。
まことに、もっともな意見です。
この方の言われるように、仏教は、もともと死人の後始末をするものではなく、生きている人を、生きている時に、本当の幸福に導くものなのです。
浄土真宗親鸞会では、その本当の仏教を多くの方に伝える活動をしています。
全国各地で講演会、法話を開いていますので、お気軽に参加してみてください。
(E)
『大きな転換点』を迎えている
4 月 3, 2008 on 1:04 pm | In 浄土真宗 | No Comments
「親鸞思想よ もう一度」
3月25日の朝日新聞に、こんなタイトルの記事が掲載されました。
前文には、親鸞聖人の教えの研究が、「大きな転換点を迎えている」とあります。
大きな転換点とは何だろうと思いながら、読み進むと、以下の内容が。
東京大の末木文美士教授は、 「『歎異抄』だけに頼り解釈を進めるべきではない」と言う。
親鸞の死から20年ほどして弟子の唯円が書いたとされており、「親鸞自身が書いた一次資料ではない」として親鸞の主著「教行信証」を重視する立場だ。(中略)
ただし、読解には幅広い仏教の知識が必要で、研究者以外には 「教行信証」は敬遠されてきた。だからといって、『歎異抄』だけで親鸞を市民に語る時代は終わった」と指摘する。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200803250108.html
これまで、『歎異抄』を論じたものの多くは、著者の体験や信条に力点が置かれ、自由奔放に解釈されてきました。
ところが、『歎異抄』は、浄土真宗の中興、蓮如上人が、親鸞聖人を誤解させるおそれがあると、“仏縁の浅い人には披見させてはならぬ”と封印された秘本であり、江戸時代まではほとんど知られていなかった書物なのです。
ある機縁で、明治以降、急速に読み始められてから、まだ100年もたっていません。
蓮如上人が封印された『歎異抄』。
それだけを頼りに、自分勝手に理解するのがいかに危険か、親鸞聖人の教えと乖離してしまう可能性がいかに高いか、親鸞学徒は熟知しなければならないと思います。
では、どうしたら、正しくその心を知ることができるのか。
末木教授の言うとおり、親鸞聖人ご自身の書かれたお聖教に基づいて拝読するほかありません。
ですから、氏の発言は、とても大事な指摘だと思われます。
『歎異抄をひらく』のはじめには、こう記されています。
「本書は、聖人自作の『教行信証』などをもとに、『歎異抄』の真意の解明に鋭意努めたつもりである」
末木教授も、早速この本を読まれたのかもしれませんね。
記事には、東北大の佐藤弘夫教授のこんな発言も紹介されていました。
「親鸞は人間の本性を真正面から見つめ、肯定し、乗り越えようとした。戦争や紛争などが大きな問題になるなか、親鸞の思想はますます重要になる」
「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
“親鸞はただ、お釈迦さまの教えを自らも信じ、伝えているだけなのです”
と、常に仰せの親鸞聖人に、独自の思想はありません。
しかし、親鸞聖人の教えが、ますます重要になっている、との予測は、的を射ているといえましょう。
親鸞聖人や蓮如上人のお言葉を提示し、その意味を正しく、懇切丁寧に明らかにする。
平成の親鸞学徒により、本当の親鸞聖人の教えが広く知られる、〝大きな転換点〟を迎えているのは、間違いないと感じます。
(E)
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