日記 一覧

継続は力なり

「自分の技術を磨くこと」を、「キャリアアップ」というそうです。中谷彰宏著『35歳までにやめる60のこと』には、キャリアアップに大事なのは、日々の小さな積み重ねだと書かれています。

 

キャリアアップは、自分をいかに成長させるかです。

1秒前より1秒あとの自分を成長させるのが、キャリアアップです。

勉強を続けていると、自分がなかなか成長している気がしません。

でも、まわりの人は、「すごく変わった」と感じています。

自分の成長は、自分が一番感じにくいのです。

自分自身と距離が近いからです。

自分を毎秒見ています。

ところが、久しぶりに会った人は、成長を感じます。

本人に変わった実感はなくても 、

次の授業で会う人は、「変わった」と感じます。

教える側は、もっと大きい距離感で進化していると感じます。

まわりの仲間も、同じように「変わったね」と感じます。

これがキャリアで大切なことです。

自分の進化と同じように、退化も、

自分よりまわりのほうが、先に気づきます。

先生はもっと気づきます。

自分で頑張って気づいていくしかないのです。

日々進化、退化しています。

進化していなければ、退化しているのです。

退化に気づかないのは、

進化に気づかずにイライラすることよりも、もっと怖いのです。

何かをしていれば、昨日と変わらなくても退化はしていません。

何もしなければ、退化します。

頑張っていれば、退化はしないのです。

焦らないことです。

焦ると、やめたくなります。

「キャリア」とは「続けること」です。

乗りかえることではないのです。

続け、つなげていくことで蓄積がきくのです。

 

「何もしなければ、退化します」と書かれていますが、〝現状維持は後退〟といわれるように、日々の積み重ねで、五年後、十年後には、大きな差がついてしまうのでしょう。

蒔いたタネは必ず生えます。自分の「進化」が目に見えないからとイライラせず、焦らず着実に、一歩一歩、前進したいと思います。


仕事と自由、どちらが欲しい?

『富山新聞』に、「毎日が日曜日 仕事が欲しい」という、60歳男性の投書がありました。
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仕事へ行かなくては、と思うとなかなか寝床から
抜け出せない。けれど、毎日が日曜日になると、
はじめは楽しくてしょうがないけれど、それが
ずっと続くとなると、これがまた布団から出られない。
最初のうちは前の晩から明日はこれをしよう、
あれをしよう、と箇条書きにしておくのだけれど、
それがだんだん少なくなってきてしまう。する事が
ない。こんな辛いことはない。お金云々ではなく、
毎日するべき仕事がある、やる事があるということは
生きる上で一番大切だと思うようになった。(中略)
趣味、ボランティア…、もう少しで畑仕事も冬仕舞。
さて何をしようか。
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 仕事から解放され、「毎日が日曜日」となったら、好きなことが自由にできる夢の生活に聞こえます。しかし実際は、何をすれば分からなくて、仕事でも何でもよいから、とにかく何かをやって時間を埋めたくなるようです。
 ゲーテは『若きウェルテルの悩み』で、こう言っています。
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人間なんてものは何の変哲もないものさ。
大概の人は生きんがために一生の大部分を使ってしまう。
それでもいくらか手によどんだ自由な時間が少しばかりあると、
さあ心配でたまらなくなって、なんとかしてこいつを
埋めようとして大騒ぎだ。
まったく奇妙なものさ、人間というやつは。
(高橋義孝訳)
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 私たちに一番必要なのは、毎日を日曜日にすることではなく、生きて何をすべきかを知ることではないでしょうか。人生の目的がわからなければ、せっかくの自由な時間も、生かすことはできないでしょう。

  

仏に成れると思った哲学者

女流哲学者・池田晶子氏は、平成十九年二月、腎臓ガンのため46歳の若さでこの世を去りました。
生きる意味、死の意味について語り続けた本人が、あまりにも早い死を迎えたことが、よけいに同情を集め、今も書店には多くの著作が並んでいます。

遺稿となったコラムの最後には、自分を「一生涯存在の謎を追い求め、表現しようともがいた物書き」と記していました。

「生きても死んでも大差ない」と豪語していたこともありましたが、腎臓ガンの手術を受けたあと、知人への手紙には、反対のことが書いてあります。

「やはり、生きようとする意志を積極的に肯定することが大切なのだと思う。私は今まで生に対する執着がないから仏になれると思っていたけれども、生きることを全うしないと成仏しないのかもしれない、それに気づいてから前向きに病気と闘おうという気持ちになりました――」

ながめている他人の死と、眼前に迫った自己の死は、動物園で見ている虎と、山中で出くわした虎ほどの違いがあるといわれます。
生きるとは? 死ぬとは? 哲学者だけでなく、すべての人が、この問いに答えなければならないのではないでしょうか。

 


「私」って何? と思っている私って?

自分のことは自分が一番知っている、と思いがちですが、「汝自身を知れ」と古代ギリシアからいわれてきたように、もっともわからないのが自分自身ではないでしょうか。

そもそも、「私」を見たことのある人はいません。
「毎朝、鏡で見ているよ」と言われるかもしれませんが、鏡に映っているのは「私の顔」であって、「私」そのものではありません。

「私の身体」は、「私の財布」や「私の時計」と同じで、私の持ち物ですから、「私」ではありません。本当の「私」は、どこにいて、どんな顔をしているのでしょうか?

私とは何か?

これが、いかに大変な問いであるか、昨年の芥川賞を受賞した、ミュージシャンでもある作家、川上未映子は、『わたくし率 イン 歯ー、または世界』出、次のように表現しています。

「化粧ばっかりしやがって、人の目ばっかり気にしやがって、そんなんちゃうで、そんなもんちゃうんじゃほんまのことは、自分が何かゆうてみい、人間が、一人称が、何で出来てるかゆうてみい、一人称なあ、あんたらはなにげに使うてるけどなこれはどえらいものなんや、おっとろしいほど終わりがのうて孤独すぎるものなんや、これが私、と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私!!」

この謎に満ちた「真実の自己」を、二千六百年前に解明されているのが、仏教なのです。


「いちばんは、阿弥陀さまでしょ」

family

5歳になったばかりの息子ですが、最近、漢字が読めるようになりました。

と言っても、家族の名前や、幼稚園の同じクラスのお友達の名前だけですが。
その息子が、家の前に掲げられた表札を見て、尋ねてきました。

「ねえ、どうして、お父さんの名前だけあって、お母さんの名前はないの?」
「それはね、お父さんがいちばん偉いからだよ」と答えると、息子はすかさず、
「えーっ、いちばんは、阿弥陀さまでしょ」

これには、参りました。

蓮如上人は、『御文章』に、「弥陀如来(阿弥陀仏のこと)と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なり」と教えられています。

お釈迦さまは地球上ではただ一人の、仏のさとりを開かれた方ですが、大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、無数の仏がましますと説かれています。
それらの仏を「三世十方の諸仏」と言います。

よく知られているのは、大日如来とか、薬師如来、奈良の大仏はビルシャナ如来と言われる仏ですが、それらの仏も皆、十方諸仏の一人です。

「本師本仏」とは、本師も本仏も先生ということで、この大宇宙の仏方の先生だということです。
だから、大宇宙でいちばん偉いお方は、阿弥陀仏です。

私自身、親鸞会に出遇う前は、お釈迦さまも、阿弥陀仏も同じ仏だろう、くらいに思っていました。
同じように考えている人は、案外、多いように感じますが、仏教では、ハッキリとこのように説かれています。

阿弥陀仏が尊い仏だということは、常々、教えてきたつもりでしたが、「いちばんは、阿弥陀さまでしょ」と答えるわが子を、とてもほほえましく思いました。
その仏縁を一層、はぐくんでいきたいと思った出来事でした。

(E)

>>【浄土真宗講座】なぜ、阿弥陀仏が本師本仏なのか


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