●仏に成れると思った哲学者 親鸞会 菩提樹
6 月 6, 2010 on 2:55 am | In 日記 | No Comments女流哲学者・池田晶子氏は、平成十九年二月、腎臓ガンのため46歳の若さでこの世を去りました。
生きる意味、死の意味について語り続けた本人が、あまりにも早い死を迎えたことが、よけいに同情を集め、今も書店には多くの著作が並んでいます。
遺稿となったコラムの最後には、自分を「一生涯存在の謎を追い求め、表現しようともがいた物書き」と記していました。
「生きても死んでも大差ない」と豪語していたこともありましたが、腎臓ガンの手術を受けたあと、知人への手紙には、反対のことが書いてあります。
「やはり、生きようとする意志を積極的に肯定することが大切なのだと思う。私は今まで生に対する執着がないから仏になれると思っていたけれども、生きることを全うしないと成仏しないのかもしれない、それに気づいてから前向きに病気と闘おうという気持ちになりました――」
ながめている他人の死と、眼前に迫った自己の死は、動物園で見ている虎と、山中で出くわした虎ほどの違いがあるといわれます。
生きるとは? 死ぬとは? 哲学者だけでなく、すべての人が、この問いに答えなければならないのではないでしょうか。

●「私」って何? と思っている私って?
4 月 27, 2010 on 9:52 am | In 日記 | No Comments自分のことは自分が一番知っている、と思いがちですが、「汝自身を知れ」と古代ギリシアからいわれてきたように、もっともわからないのが自分自身ではないでしょうか。
そもそも、「私」を見たことのある人はいません。
「毎朝、鏡で見ているよ」と言われるかもしれませんが、鏡に映っているのは「私の顔」であって、「私」そのものではありません。
「私の身体」は、「私の財布」や「私の時計」と同じで、私の持ち物ですから、「私」ではありません。本当の「私」は、どこにいて、どんな顔をしているのでしょうか?
私とは何か?
これが、いかに大変な問いであるか、昨年の芥川賞を受賞した、ミュージシャンでもある作家、川上未映子は、『わたくし率 イン 歯ー、または世界』出、次のように表現しています。
「化粧ばっかりしやがって、人の目ばっかり気にしやがって、そんなんちゃうで、そんなもんちゃうんじゃほんまのことは、自分が何かゆうてみい、人間が、一人称が、何で出来てるかゆうてみい、一人称なあ、あんたらはなにげに使うてるけどなこれはどえらいものなんや、おっとろしいほど終わりがのうて孤独すぎるものなんや、これが私、と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私!!」
この謎に満ちた「真実の自己」を、二千六百年前に解明されているのが、仏教なのです。

「いちばんは、阿弥陀さまでしょ」
10 月 1, 2009 on 1:51 pm | In 日記 | No Comments
5歳になったばかりの息子ですが、最近、漢字が読めるようになりました。
と言っても、家族の名前や、幼稚園の同じクラスのお友達の名前だけですが。
その息子が、家の前に掲げられた表札を見て、尋ねてきました。
「ねえ、どうして、お父さんの名前だけあって、お母さんの名前はないの?」
「それはね、お父さんがいちばん偉いからだよ」と答えると、息子はすかさず、
「えーっ、いちばんは、阿弥陀さまでしょ」。
これには、参りました。
蓮如上人は、『御文章』に、「弥陀如来(阿弥陀仏のこと)と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なり」と教えられています。
お釈迦さまは地球上ではただ一人の、仏のさとりを開かれた方ですが、大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、無数の仏がましますと説かれています。
それらの仏を「三世十方の諸仏」と言います。
よく知られているのは、大日如来とか、薬師如来、奈良の大仏はビルシャナ如来と言われる仏ですが、それらの仏も皆、十方諸仏の一人です。
「本師本仏」とは、本師も本仏も先生ということで、この大宇宙の仏方の先生だということです。
だから、大宇宙でいちばん偉いお方は、阿弥陀仏です。
私自身、親鸞会に出遇う前は、お釈迦さまも、阿弥陀仏も同じ仏だろう、くらいに思っていました。
同じように考えている人は、案外、多いように感じますが、仏教では、ハッキリとこのように説かれています。
阿弥陀仏が尊い仏だということは、常々、教えてきたつもりでしたが、「いちばんは、阿弥陀さまでしょ」と答えるわが子を、とてもほほえましく思いました。
その仏縁を一層、はぐくんでいきたいと思った出来事でした。
(E)
世紀の天文ショーを正本堂と一緒に
7 月 24, 2009 on 3:04 pm | In 日記 | No Comments
数カ月前からマスコミなどで話題になっていたのが、「衆議院解散」と「皆既日食」。
衆議院解散はアレとして、老いも若きも今週の最大関心事は「日食」!先日22日は、太陽が月にスッポリ隠れてしまう皆既日食で、日本の陸地で観測できるものとしては、1963年7月21日以来46年ぶりとのこと。皆既日食は、トカラ列島などの限られた場所でしか見られませんが、月が太陽の一部のみを隠す部分日食は、日本全国で観測できるとあって大フィーバーでした。
そこで、親鸞会館のある富山県ではどうかといいますと、富山市天文台の情報によれば、9:52ごろから「食のはじめ」といって天頂側から徐々に欠け始め、11:07ごろに最も欠ける「食の最大」となり、この時の最大食分が74%。そして、12:24ごろに日食の終わりとなる「食のおわり」でした。ちなみに、最大食分が74%というのは、最大で太陽の74%が欠けてしまうということなんですが、70%を超える部分日食は1958年4月19日以来51年ぶりだそうです!
「そんなチャンスを、ぜひとも正本堂と撮りたい!」と思うのは、写真愛好家としては当然のことですね。ただ、日食の撮影というのは、まさしく「太陽の撮影」!太陽の光量はハンパではなく、どんなストロボをまとめてたいたところで及ばない明るさなんですね。ですから、そのまま撮っては、ただ真っ白く飛びまくった写真になりかねません。それなりの準備が必要です。
日食撮影の準備
最も大事なのは、そのケタ外れの光をいかにしてコントロールするかっていうことになります。つまり、人間なら日食観察用の「日食グラス」を使って観察するように、カメラにも日食グラスとかサングラスのような減光アイテムが必須となります。それが、NDフィルターですね。
一般的に、NDフィルターが使われるのは「滝の撮影」ですね。写真集などで日本の滝の写真を見てみると、水しぶきすら感じさせない絹糸のような綿のようなソフトな写りになっているかと思いますが、これはNDフィルターというカメラ用のサングラスを装着してシャッタースピードを遅くして撮っているからで、そうすることによって水しぶきがはじける荒々しい滝も、華麗な絹糸の滝に大変身してしまうのです!でも、この滝の撮影レベルでは、光量を1/4とか1/8程度に落とすNDフィルターで十分なんですが、さて、太陽になるとどんなもんでしょう?
推奨されているのは、富士フィルムやケンコーなどで扱っている、光量を1/10000にしてしまう超弩級のNDフィルター。透かしても何も見えない真っ黒なガラスみたいだそうですが、太陽を撮影することを考えなければ出番がないシロモノですね。そんな、使用頻度の低い1/10000のNDフィルターは、とっくにメーカー在庫も尽きしてしまい、頑張ったところで入荷は日食に間に合わず!はるかに減光能力の低い1/400も品切れとなり、揚げ句の果てには1/8なんていうのも品薄になる「特需」でした。
親鸞会館も写し込む「技」
しかし、そんな1/10000のNDフィルターなんて、今回の日食撮影が終われば、そのまま防湿庫行きで、気がつけば数世紀もの間発見されない正倉院の宝物状態になりかねません。そんなワンチャンスのために購入するのもバカバカしいですし、何よりもそんなに減光してしまえば太陽以外には何も写りません。そこで「正本堂も写し込んで撮影するには、アレを試してみるしかない!」と、ある特殊撮影&特殊画像加工を試してみることを企ててみました。
それが、HDR(ハイダイナミックレンジ)画像の生成ですね!
同じアングルで露出を段階的に変えた写真を数枚撮影し、パソコン上の特殊なソフトで多ビット画像に統合してしまうという銀塩写真では、まず難しい写真を作り出すという手法です。
気になる天候は……
さて、これほどの明度差のある写真でHDR画像を作ったことがない私ですが、いよいよ22日を迎えました。前日は雨!心配していた天気でしたが、雨の国である富山も珍しく晴れ、日食中は悪くても薄く雲がかかる程度でした。
いそいそと、カメラを2台設置。望遠専用と広角専用の2台です。広角のレンズには、もともと所有していた1/4のNDフィルターと反射除去用のPLフィルターの2枚重ねで対応。絞りは最大絞りで所有レンズならf22で、ISO感度も減感してISO100相当にしました。
そして、11:00過ぎ、周囲は薄暗くなりましたが、正本堂に露出を合わせて撮影したのがコレ。

……と、いくら部分日食とはいえ太陽の光量はハンパじゃありません!太陽がどこにあるのか分からないくらいにまぶしいじゃないですか!!減光しまくっていますが、シャッタースピードは1/5秒くらい。
ここから、段階的にシャッタースピードを速めていき、最速の1/8000秒まで持っていくと……、

……となってしまいます。まさに闇夜ですね。これでも、光量に追いつけないので、輪郭は丸くなってしまいました。でも、これ以上、暗く撮れないですね。さて、ここからHDR処理ソフト(しかも、トライアル版……)にて統合し、レタッチしたのがコレです。

シャッタースピードにして、1/5秒と1/8000秒という両極端な露出の写真の統合ですので、1600倍もの明度差を通常レンジに圧縮しています。そのため、正本堂が夕暮れのように薄暗いのですが、これはご愛嬌。肉眼でも観察できない正本堂と日食のツーショットです!ネット上で日食写真を検索しても、HDRやっている人はあまり見掛けませんね。
この調子で、鷲のマークをクローズアップして撮ったのがコレ。

これは、日食が始まったころですね。何となく鷲の陰影が分かる程度に露出を落としています。レンズ内での反射によってできるゴーストが日食の影響で三日月型になっていることに注目です!
ほぼ同じアングルで、露出を上げて撮ったのが次の写真です。

ごらんのとおり、太陽に雲がかかっていたので、減光作用があって装備不十分な私としては恵みの雲でした。鷲のマークもカッコイイですね。
そんな感じで、今回の日食撮影は終了!HDR処理も体験できて面白かったです。
次回の金環日食に期待!
富山で次に観測できる部分日食は、来年1月15日の16:54ごろ。ほとんど日没なので、形は見えるかもしれませんが、最大食分11%なので、あまり欠けません。それよりも、2012年5月21日の7:21ごろには、日本の太平洋側では金環日食が見られ、富山では最大食分92%の部分日食が見られますので、それに期待したいと思います。法輪閣の屋上から撮れば、正本堂と立山連峰と日食のトリプルショットが期待できます!
それで、どうしても皆既日食を正本堂で見たければ2035年9月2日まで待つしかないようです。それこそ生きていられるかどうか……。
頑張って生き抜きたいと思います。
浄土真宗親鸞会・降誕会★弁論大会のウラ側、一挙大公開 !!
7 月 9, 2009 on 4:45 pm | In 日記, 未分類 | No Comments6月20日(土)、21日(日)は、
富山県射水市の親鸞会館で、親鸞聖人降誕会が勤められました。
降誕会(ごうたんえ)とは、
人は、何のために生まれてきたのか、
何のために、生きているのか、
苦しくとも、なぜ生きなければならないのか、
最も大切なこの問題に、ハッキリと解答を示された親鸞聖人のご生誕をお祝いして、
開かれるご法話のことです。
その降誕会2日目の午後は、毎年恒例の弁論大会が行われました。
昨年50周年を迎えた親鸞会が、結成当初から春の降誕会と秋の報恩講に行われている伝統ある行事で、
今回でなんと、143回目を迎えました。
弁論大会では、親鸞聖人の教えを学び、信じ、伝えている全国の親鸞学徒を代表して、
7名の弁士が、聞法を通じて知らされた体験を弁論します。
今回も壇上には、弁士7名の演題がズラリ、掲げられていました。


(※注 これは掲げられた時の写真ではありません…)
この演題を書かれたのは、ある書道の大家、K先生です。
K先生とは、どういうご縁でか、
ご揮毫の際には、ワタクシ、ふつつかながら、
お手伝いをさせていただいているんです。
いつも本当に、ありがとうございます。
その時のことを、一挙大公開、したいと思います。
書道に関心のある方は、必見です。

ご揮毫中のK先生。
到着されると上下ともに動きやすい服装に着替えられ、頭にはバンダナを締められます。
これだけ大きな用紙に、字を書くというのは、大変な集中力と体力が必要で、
途中で「暑いっ」と汗を流されるほどなんです。
その汗がこぼれないための、バンダナなのです。

左手に持っておられるのは、片手鍋。
これが、大きな字を書かれる時の、「すずり」にあたるのです。
持ちやすいから、移動しやすい、墨もたれないので、とっても便利!
ご自宅では、アルミ製のものを使っておられるとか。
「アルミだと軽いけんね~、疲れんのんよ~」(広島弁)
なるほど!

これが、その片手鍋と筆。
乾いた筆をいきなり墨汁につけても、なかなか吸わないので、
先生はいつも、水につけて慣らしてから、始められます。

これは、弁士の名前や県名を書かれる時に、使われた筆。
なんと、狸の毛です。たぬき!
硬めの毛なので、力強い線を書くことができるんです。
さて、皆さんは、書いている間に、筆の穂先がボサボサ、割れてきたりすると、どうされますか?
すずりで、筆を調えませんか?
そうでないと、紙に筆を置けませんよね?どうでしょう?
しかし!
K先生は、これをされないのです!!!
穂先はボサボサのまんまで、筆をくるくる、くるくる
自由自在に動かして、書いてゆかれるのです!!
今回も、
「んーなんか、この筆、穂先がくっついてるね~」
と言われ、
(しまった!洗い方が悪かったんだ!マズイっ)
と冷や汗流していると、
「まぁ、でも、こっちのほうが面白いかもね~」
と、書き始められました。
ほら、だから、こんなふうに、

「の」のかすれ具合、おもしろいでしょ?

これも、すごいでしょ?
「火」の4画目のはらいとか、、
「を」も、勢いと力強さにしびれます!
ほんと、ダイナミックなんです!

これは、「は」の字が続くので、1つ目と2つ目は、
ガラリと書き方を変えられています。
文章でも、同じ言葉を繰り返さずに書かれたものがよいといわれるのと同じようなもので。
1画目 上の字 →真ん中のあたりで、曲げてある
下の字 →上の方で、曲げてある
2画目 上の字 →下から上へ、筆を入れてある
下の字 →上から下へ。
だから、3画目の筆の流れも変わってきてますよね。

1画目の墨のたれは、ワザと、だそうです!
「す」の字も、2画目、最後まではらってしまわないことに驚いていると、
「『す』のお母さんは、『寸』だからね~」と。
本当に気さくに、いろいろなこと、教えてくださるんです。

この字も、思わずじぃっと眺めてしまいます。
もう、うっとり……。
この「一」の字、拡大しますと……

あぁ、もう言葉になりません……。
ということで、達人の技に感動、感激の連続でした!
まだまだ、紹介したいこと、いっぱいなのですが。
そして、最後に、気になる今回の優勝弁論は、
こちら!

「親鸞学徒の本道を往く」
とても嘆かわしいことに、現在、寺院では、親鸞聖人の教えが説かれていません。
お釈迦さまのお言葉、親鸞聖人のお言葉を出し、説教されているところはないのです。
しかし、親鸞聖人の本当のみ教えを知らされた「親鸞学徒」は違います☆
自分の個人的な体験、思いを一切入れず、
親鸞聖人のお言葉を出し、そのお言葉の意味を丁寧に説明していく。
これが、親鸞学徒の本道です!
親鸞聖人のみ教えを正しく、1人でも多くの方にお伝えしていきたいと思います。
心から満足できない「闇」
6 月 13, 2009 on 4:16 pm | In 日記 | No Comments桜が散り、紫陽花の季節になりました。
島崎藤村の「別離」という詩に、花に触れたところがあります。
「梅の花さくころほひは
蓮さかばやと思ひわび
蓮の花さくころほひは
萩さかばやと思ふかな」
梅が咲けば、蓮が見たいと思い、蓮が咲けば、萩が見たいと思う。
ないものねだりをするのが、人の性なのでしょうか。
花ならずとも、欲しいものがやっと手に入ったのに満足できず、また別のものが欲しくなる──。
心から満足できないのは、欲しい物を自分の物にできないからではなく、心そのものが暗いからなのだよ、とお釈迦さまは教えられました。
そんな心の闇を破る教えが、二千畳の親鸞会館で説かれています。
「紫陽花よりも、向日葵を早く見たい」と嘆く前に、一度、お出掛けください。
(E)
窓の隙き間から鳥が飛び込むよりも……
6 月 11, 2009 on 1:22 pm | In 日記 | No Comments
仕事中、目の前を茶色い物体がスーッと横切りました。
????
一体、何が起こったのかと振り向くと、茶色い鳥が、部屋の中を飛び回っていました。
換気用に開けてあった窓の隙き間から、入り込んだらしいのです。
窓の隙き間は、10センチ程度。
その鳥も、ほぼ同じ大きさだったので、うまく擦り抜けたものだなあと思いました。
もし、隙き間に入らず、窓ガラスに激突していたら、ここはビルの3階、悲惨な結果になったに違いありません。
こんなこともあるものなんだあと思いながら、ふと、お釈迦さまの「盲亀浮木の譬え」を思い出しました。
* *
ある時、お釈迦さまが阿難というお弟子に、
「そなたは人間に生まれたことをどのように思っているか」
と尋ねられた。
「大変喜んでおります」
と阿難尊者が答えると、お釈迦さまは、
「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。
その盲亀が、100年に一度、海面に顔を出すのだ。
広い海には1本の丸太ん棒が浮いている。
丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。
その丸太ん棒は風のまにまに、西へ東へ、南へ北へと漂っているのだ。
阿難よ。100年に一度、浮かび上がるこの亀が、浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴にひょいと頭を入れることがあると思うか」
聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことはとても考えられません」と答えると、
「絶対にないと言い切れるか」。お釈迦さまが念を押されると、
「何億年かける何億年、何兆年かける何兆年の間には、ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」
阿難の答えにお釈迦さまは、
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
と、教えられました。
* *
この鳥が、窓の隙き間から部屋に飛び込んだよりもずっとずっと稀な確率で、私たちは、人間に生まれてきたのですね。
同僚の手で保護され、再び大空へ帰っていく鳥を見ながら、人間に生を受けた有り難さをしみじみと思いました。
(E)
関連
後戻りできない「人生」という旅 〜花のいのちはみじかくて〜
6 月 8, 2009 on 1:10 pm | In 日記 | No Comments森光子さん、国民栄誉賞の受賞、おめでとうございます。主演舞台の『放浪記』2000回公演って、すごいですよねえ。
70歳の時から、足腰強化のため、スクワットを毎日欠かさず朝晩75回しているそうです。
2000回公演を迎えるにあたり、100回ずつに増やしたそうですよ。
そんな89歳の方に、お会いしたことありません。努力の賜物です。
ところで、『放浪記』って、そもそも何なんでしょう。
これは、昭和初期の流行作家・林芙美子さんの書いた自伝的小説で、「私は宿命的な放浪者である。私は古里を持たない…したがって旅が古里であった」で始まります。
仏教を説かれたお釈迦さまも、人間を旅人に例えられています。
私たちの人生は、昨日から今日、今日から明日へと、時間を旅しているようなものです。
それは決して、後戻りできない旅であり、どこへ向かえばいいのか、当てもなくさまよう、放浪の旅なのかもしれません。
林芙美子さんは、「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」という有名な言葉を残しています。
47歳の短い人生、林芙美子さんは、どこへ向かって旅をしたのでしょう。こちらで、どうぞ。
(I)
子供を育て始めて知らされる「親の恩」
4 月 23, 2009 on 1:18 pm | In 日記 | 1 Comment先日、朝7時に福井の実家に住む母から電話がありました。
仕事に出掛ける直前、慌てて電話を取ると、
「今日、誕生日だったよね。これからも元気で頑張りなさい」。
そう言われて初めて、「そういえばそうだった」と思い出していました。
やっぱり親って、子供のことはいつまでも気にかかるみたいですね。
そういえば、幕末の思想家、吉田松陰は、「親思ふ 心にまさる親心 けふのおとづれ何ときくらん」との辞世の句を残して、刑場の露と消えたといいます。
江戸末期、時の権力者・井伊直弼が、反幕府の思想を持つ者たちを一斉に弾圧した「安政の大獄」が起きますが、吉田松陰も捕まって投獄され、最期、詠んだといわれるのが、上記の歌です。
「親を思っている以上に、心をかけてくださっているのが親というもの。今日のこの死刑を、何と聞かれるだろうか……」という意味のようです。
1月末に子供が生まれました。
最近、夜泣きがひどくて、夜中に散歩に連れていっても声を張り上げて泣きやまず、この前は、擦れ違う人から「大変だね〜」と言われる中を、1時間ほど歩いていました。
家に帰ってからは、オムツを取り替え風呂に入れ、ミルクを飲ませ、寝かしつけます。
育児って、体力使います。自分の時間もなかなかとれません。
しかも病気になったらとか、保育園になじめるかなとか、心配が次々に出てきたりもして。1人でもアップアップの状態です。
でも、母は、3人の子供を育てました(もちろん、父も)。
子供を育て始めて、改めて、親ってやっぱりすごいなと思いますね。
仏教では、『父母恩重経』というお経があって、「父母の恩重きこと天の極まり無きが如し」と教えられていますが、本当にそうだなぁとかみしめています。
(W)
ベールを脱いだ俳優の素顔
4 月 6, 2009 on 1:07 pm | In 日記 | No Comments映画『ターミネーター4』の公開が近づいてきました。
ファンは大喜びですが、その一方で、主演のクリスチャン・ベールが、撮影中に激怒して、カメラマンや監督にどなり散らした映像が、インターネットに流出しています。
ベールの暴言を音楽に乗せた動画は、150万人が見ました。
ネットでさんざんこき下ろされた結果、ようやく本人も「チンピラみたいな行いをしてしまった」と反省していますが、時すでに遅し。
「怒り」と「ネット」の恐ろしさを、改めて知らされました。。。
それにしても!
『ターミネーター4』の内容が気になります! o(^o^)o
『ターミネーター』もクリスチャン・ベールも大好きなので、応援します!!
(R)
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