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坂の上も坂?

藤原和博著『坂の上の坂』という本が出版されています。サブタイトルには「55歳までにやっておきたい55のこと」とあります。

一仕事を終えて50代になっても、平均寿命からいえば、あと30年は人生が続きます。その30年は、決して平坦な道ではありません。大きな仕事をして、人生の坂を越えたと思っても、まだまだ坂が続くのが、現代の「老後」です。

「越えなばと 思いし峰に きてみれば なお行く先は 山路なりけり」

ひとつの苦しみを乗りこえて、ヤレヤレと思う間もなく、別の苦しみがあらわれます。

天下を取り、征夷大将軍にのぼりつめた家康でも、「重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」とみずからの一生を述懐しています。死ぬまで、苦悩という重荷はおろせなかったというのです。無類の楽天家ゲーテでさえ、「結局、私の生活は苦痛と重荷にすぎなかったし、七十五年の全生涯において、真に幸福であったのは四週間とはなかった」と嘆いています。

しかし私たちは決して、苦しむために生まれてきたのではありません。生きているわけでもありません。すべての人間の究極の願いは、苦悩をなくして、いかに明るく楽しく生きるか、に尽きます。55歳までに知っておきたい、ただ一つのことを教えられた方が、世界の光・親鸞聖人なのです。


臨終の心を聞かれたら?

 ベネズエラの大統領だったチャベスが3月5日、58歳で、この世を去りました。かつて国連総会で、当時のブッシュ大統領の演説に触れた際、「米国人にとっての脅威は彼ら自身の家にある。悪魔は本国にいる。昨日ここに悪魔が来た。まさにこの壇上に。まだ地獄の硫黄の匂いがする」とぶちあげ、十字を切った反米左翼のカリスマでした。

そのチャベスも、病には勝てず、死の床では「死にたくない。お願いだ、死なせないでくれ」と懇願したと伝えられています。

人間、生まれたからには、必ず死ななければなりません。死んだら、どうなるのでしょうか。「死んだら、極楽に往きたい」というのが、万人の願いでしょう。

いつ死んでも、必ず弥陀の浄土に往けると、未来が明るくなれば、現在から大安心になります。この絶対の幸福こそ、全ての人の究極の願いであり、その幸福になるたった一本の道を教えられた方が、親鸞聖人です。

まさに「世界の光」でしょう。


市場にトラが現れた?!

 インターネットで情報が氾濫する現代は、私たちの情報を見る「目」が問われます。

 昔、中国で魏の太子が人質として、趙へ送られることになった時、太子を守って一緒に行くことを命じられた家臣が、王に尋ねました。

「『市場に虎が出た』と、一人の人間が言ったら、王様は信じられますか」

「いや、信じるわけがない」

「では、二人が、同じように言ったら、どうでしょうか」

「やはり、疑わしいな」

「しかし、三人が、『市場に虎がいる』と言えば、信じられるでしょう」

「それは信じるさ」

「そもそも町の中に虎が出ることなど、ありえないことです。
 しかし、三人もの人が言うと、町の中に虎がいたことになってしまうのです。
 私が趙へ行ったあと、私の悪口を言う者が出てくると思います。
 三人どころではないでしょう。王様、くれぐれも、ウワサに惑わされないようにお願いいたします」

王は、この家臣を信頼していたからこそ、太子の随行を命じたはずでした。

しかし、権力争いから、彼の悪口を言う者が出てくると、最初は真に受けなかったのに、次第に、疑いの心がふくらんでいきました。

結局、任務を果たして帰国したあと、王は、二度と彼に会おうとしませんでした。

この故事から「市に虎あり」が生まれました。事実でないことでも、多くの人のウワサになれば、信じられてしまうことの例えに使われています。

インターネットに、どれだけ無責任な噂が流れているか、想像もできません。親鸞聖人は、そらごと、たわごとばかりの世の中で、弥陀の本願だけが真実なのだよ、と教えておられます。

「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(歎異抄)
(意訳:火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。)

死を見つめた哲学者

哲学者・中島義道(電気通信大学教授)は『どうせ死んでしまう……私は哲学病。』の中で、仕事が嫌だと感じている人は、ある真実に気付いているのだと、次のように書いています。

「仕事を厭々ながら続けている人は多いと思う。そういう人は一つだけ確実に真実を見ている。それは、所詮いかなる仕事も、それほど重要ではないということである。じつは、地上には命を懸けるに値するほどの仕事なんか、まったくないのである。そううすうす感じながらも、人は仕事にすがりつく。なぜなら、そうでもしなければ人生は退屈で退屈でたまらないのだから。」

『どうせ死んでしまう』のに、なぜ生きるか。中島義道は、自分の仕事は、この『ほんとうの問い』を問い続けることだと言います。

「私は『ほんとうの問い』を表現せずに生きることはできない。それは、私が下品だからであり、俗物だからであり、弱いからであり、怠惰だからである。そのことを私は知っている。そういう私にとって、仕事をするとは、こうした匿名の人々の激しい視線に全身射抜かれながら、『なぜ、私はもうじき死んでいかねばならないのか。そして、それにもかかわらず、私は生きねばならないのか』という問いを発しつづけ、語りつづけることであるように思われる。もちろん、これもまたかぎりなく虚しい仕事であるが……どうせ死んでしまうのだからこそ豊かに生きよなどという気休めは、すさまじく真剣な問いの前では砕け散ってしまう。私もそうは信じていないのだから、そう答えるわけにはいかない」
 頭の良い人は、先が見えますから、『どうせ死んでしまう』のに、なぜ生きるか、考えるのでしょう。トルストイも真剣に生きる意味を考えましたが、ついに答えは見つかりませんでした。

 どこにも明答を聞けない中、親鸞聖人は「生きる目的は、金でもなければ財でもない。名誉でもなければ地位でもない。人生苦悩の根元を断ち切られ、〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟と生命の歓喜を得て、未来永遠の幸福に生きること」だと断言されています。
 全ての人が求めている人生の目的を明らかにされた聖人だから、「世界の光」と尊敬されるのでしょう。

浄土真宗親鸞会 同朋の里・F館状況(H22.2.24)

親鸞会の同朋の里F館の工事最新状況です。

親鸞会のF館に赤絨毯や畳が敷かれました。

親鸞会F館完成目前です。


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