「誘拐サービス」!? 親鸞会・菩提樹
3 月 8, 2010 on 3:32 pm | In 社会 | No Commentsエキサイトニュースによると、今年1月、フランスの会社が、
風変わりな商売を始めたそうです。
その名も、
「誘拐サービス」!?
文字どおり、客と筋書きを詰め、契約を交わしたあと、
その客を誘拐するというのです。
究極のスリルを味わうために、いつ誘拐犯が現われるかは知らされないのだとか。
「さらわれて縛られたり猿ぐつわをかませられた上で4時間監禁、
という『基本パッケージ』が900ユーロ(約11万円)。
このほか、追加料金で脱走やヘリコプターによる追跡などを加えることも可能」
とのこと。
開始以来、1日に2件の注文が入ることもあり、人気は上々。
利用者の多くは、
〝バンジージャンプやスカイダイビングでは物足りなくなった
大手企業の幹部〟
だと報じられていました。
「何か面白いことな~い?」
大学時代、周囲でよく耳にした言葉ですが、
変わりばえのしない日常にあきあきしているのは、
地位や財を築いた大会社のエリートたちでも同じなのですね。
会社と家との往復を繰り返す単調な毎日。
そのやりきれぬ思いを、大金をはたいてでも、
少しでも珍しい体験をして、何とかしたいとしているのでしょうか。
しかし、誘拐のスリルを一時、楽しんだとしても、
(自作自演で、本当に楽しめるのか、疑問が残りますが)
それが終われば、つまらない日常に逆戻り。
真の人生の目的を知らなければ、
「人間に生まれてよかった!」という心からの歓喜は、
決して味わえないのだと知らされます。

欲に動かされていたら
3 月 4, 2010 on 9:10 am | In 社会 | No Comments
生まれてから死ぬまで、人間を動かすものは何か、ルソーは次のように言っています。
「十歳にしては菓子に動かされ、
二十歳にしては恋人に、
三十歳にして快楽に、
四十歳にしては野心に、
五十歳にして貪欲に動かされる」
また、イソップ物語には、こんな話があります。
「蔵の中に置いてあった壺が倒れ、蜂蜜が流れ出した。
金色に光る液体が、床の上に広がっていく。
いい香りに誘われて、ハエたちが集まってきた。
“こんなにおいしいごちそうはめったにない…”
蜜の甘さのとりこになって、夢中に食べ始める。
そのうちに、彼らの足が、ねばねばした蜜にはまって、
飛び立てなくなってしまった。
もがけばもがくほど、体が、蜜の中に沈んでいく。
やがて息もできなくなってしまった。
甘い蜜におぼれながら死ぬ時に、ハエたちが言う。
“あぁ、哀れなものだ。こんな短い快楽のために、身を滅ぼすなんて……”」
欲望に突き動かされているだけでは、このハエを嗤えないのではないでしょうか。人間が「万物の霊長」といわれるのは、ただ生きるのではなく、「なぜ生きるか」を考える力があるからでしょう。その「人生の目的」を教えられたのが仏法ですから、人間にとって最も大切なことを教えられた仏法に遇えたことに感謝せずにおれません。
浄土真宗親鸞会 同朋の里・F館状況(H22.2.24)
2 月 26, 2010 on 1:42 pm | In 未分類 | No Comments親鸞会の同朋の里F館の工事最新状況です。
親鸞会のF館に赤絨毯や畳が敷かれました。
親鸞会F館完成目前です。
宝くじ悲喜こもごも 親鸞会ブログ
2 月 25, 2010 on 9:54 am | In 社会 | No Commentsエキサイトニュースによると、
南アフリカの清掃作業員・スタンリー・フィランダーさんが、
宝くじで、9100万ランド(約10億6000万円)を当てたそうです。
10億とは、何ともうらやましい……と思われる方も多いでしょう。
ところが…………!!
その分け前をもらおうと、親類や友人、見知らぬ人までが
家に押しかけてきて、本人とその家族までもが、逃げる羽目に。
スタンリー夫妻は、どちらも耳が不自由で、親類の家の裏庭にある小屋で
生活していたのですが、その小屋にさえいられなくなったのです。
仏教に、「有無同然」というお言葉があります。
有る人は金の鎖に縛られて、苦しんでいる。
無い人は鉄の鎖に縛られて、苦しんでいる。
有る人も、無い人も、苦しんでいることに変わりはない、
とのご金言です。
まさに、このご金言どおり。
当たらないほうがよかったのでは……
とも思える実話です。
このニュースには、後日談があります。
その翌日、フィランダーさんの当選は、誤解だったことが報道されたのです。
実際に当選していたのは、43歳の女性で、
フィランダーさんは、当たっていなかったとのこと。
今ごろは、
「これでやっとわが家に帰れる……」
と、胸をなでおろしていることでしょう。

信用ほど大事なものはない
2 月 24, 2010 on 10:56 am | In 社会 | No Comments孫子に、こんな話が伝わっています。ある弟子が孫子に聞きました。
「国を治めるために、必要なものは何でしょうか?」
孫子は「『食』『兵』『信』」と答えます。
中国では、食糧不足が起きやすく、暴動がよく起こっていたので、
「食」を保障してくれる指導者が、素晴らしい人だと思われていたのです。
「兵」は国を守るための武力、「信」は人々の信用です。
弟子は、さらに尋ねます。
「これらの中から、どうしても1つだけ削らなければならなくなったら、
どれを削ればよいでしょうか?」
「それは『兵』である」
「それでは、どうしてももう1つ削らなければならなくなったら、どれでしょうか?」
孫子は「『食』」と答えています。
「食」が無ければ生きていけないのですから、「食」が第一ではないかと
思われますが、孫子はこう言っています。
「『信』がなくなれば、『食』は争いの種になり、すぐさま国が滅びるだろう」
「信用」がいかに大事な資産か、考えさせられました。
信用される人間になれるよう、光に向かいたいと思います。

「生きて死ぬ私」はどこへ向かう?
2 月 15, 2010 on 11:10 am | In 社会 | No Comments幅広く活躍中の脳科学者・茂木健一郎が、エッセイ『生きて死ぬ私』の中で、
生死の問題に取り組んでいます。
この本の中で、科学の発達によって知識は格段に増えましたが、
人生の目的は何かという究極の問いは、依然として答えが出ていないと言っています。
「科学の発達により、宇宙というマクロコスモス、人間というミクロコスモスに
関する私たちの知識、理解は格段に深まった。
だが、このような理解の深まりが、人間とは何か、人間の生きる目的は何かといった
究極の問いの解明には、なかなかつながらない」
どれだけ科学が進歩しても、人生の目的は何かという問いの重さは全く変わらない
とも言っています。
「どんなに科学が進歩したとしても、何らかの価値の基準を求める人間の心が
変わるわけではない。
私たち人間はどこから来てどこへ行くのか、人生の究極の目的は何なのか、
といった問いの重みが変わるわけではない」
古くて新しい、人類永遠のテーマ「人生の目的」を教えられた親鸞聖人のみ教えを、
科学の最先端を行く人たちも求めているのではないでしょうか。

浄土真宗親鸞会 同朋の里・F館状況(H22.2.09)
2 月 10, 2010 on 3:46 pm | In 未分類 | No Comments親鸞会の同朋の里F館の工事最新状況です。 親鸞会のF館にはシャンデリアや赤絨毯までしかれています。
平凡な生活のまどろみが破られ、愕然とさせられたとき
1 月 15, 2010 on 11:20 am | In 社会 | No Comments「ひとは、なんのために生きるのか。
平凡な生活のまどろみが破られ、愕然とさせられたとき、
この問いに真剣な解答が迫られます」
少し前に、このブログに書かれていましたが、1月12日、親鸞会の法輪閣で、
このテーマについて、法友と信心の沙汰をしました。
「主人を40歳で亡くしました。それが元旦で……。
それ以来、正月を迎えても、おめでとうとは言えなくなりました」
「去年、親戚が他界しました。胃ガンの手術が成功したと喜んでいたのに、
4日目に熱が出て、それから2週間で逝ってしまった」
など、皆さん、〝平凡なまどろみが破られた〟体験を語られました。
その中で、心に残ったのは、
「脳の手術をしなければならない、となった時、
自分だけ違う世界にいるみたいでした。
ほかの人は普通に、生活しているんだけれども、
ずーっと遠くにいるようで。
世界が変わってしまった」
という発言です。
以前、『わたし、ガンです ある精神科医の耐病記』(頼藤 和寛・著)
という本を読んだのを思い出しました。
精神科医である著者は、52歳でガンの宣告を受けた心境を、
克明につづっています。
〈これまで平気で歩いてきた道が実は地雷原だったと教えられ、
これから先はもっと危ないと注意されたようなものである。
それでも時間の本性上、退くことはおろか立ち止まることもできない。
無理矢理歩かされる。
次の一歩が命取りなのか、あるいはずいぶん先のほうまで
地雷に触れないまま進めるのか。いずれにせよ、生きて地雷原から
抜け出ることだけはできない〉
死を意識した目には、周囲が全く違って映じたと、この著者も
言っていました。
〈街を歩いても、すれちがう人々はたいていわたしより長く
此の世にとどまるだろう人々である。これを思うと
一種の疎外感を禁じ得ない〉
〈(死期を)ある程度知ってしまった者と「知らずにいられる」者との間には、
たぶん人種やカーストの違い以上の、いや、ひょっとすると動物の種の違い以上の
隔たりがあるのではなかろうか〉
と感じるほどの変化だったそうです。
そして、考えたのは、この先、どう生きればよいのか、ということでした。
やがて、はぎ取られる〈人生の詰め物〉(地位や金銭など)で時間を埋めるだけなら、
意味はない。人間に生まれた真の目的を知らぬ著者は、死ぬまでにせねばならぬことなど皆無と感じ、書いています。
〈つまり、わたしはいつ死んでもいいのである。
いや、これまでだって絶対生きてこなければならなかったというわけではない。
妻子の生活はどうなる、と言われても、それなら独身時代に
死んでおけばよかったのだ。親はどうなる、と言われるのなら
(母が)流産してしまうか、赤ん坊の頃に死ねばよかった。
すぐ次のを作ることもできただろうから問題はなかろう。
(略)
わたしに必要なのは、自分が死ぬまでに仕上げておかなくてはならないものが
あると勝手に思い定めることだけである。
生きる理由というのは外を探してもどこにもない〉
死を前にしては、貧富、才能など、一切の差異は無きに等しいではないかとも
感じて、
〈してみると生前の大騒ぎは畢竟、一場の喜劇に過ぎなかったのだ〉
と書いています。
何のために生きてきたのか。
うかうかと過ごしてきた五十余年を悔いて、
〈寿命の長短にかかわらず酔生夢死を
どう防ぐかがわれわれ全員の課題である〉
と結論づけていました。
頭脳明晰な精神科医でも知りえなかった大問題「なぜ生きる」。
「われわれ全員の課題」の解答を
平生に知り得た親鸞学徒は、本当に幸せだと語り合いました。

平凡な生活のまどろみが破られた時
1 月 14, 2010 on 10:40 am | In 社会 | No Comments
年明け早々、痛ましい火災がありました。1月8日未明、群馬県桐生市の民家で火がおこり、3人の命が奪われました。祖父母と、遊びに来ていた6歳の孫でした。
「何でこんなことに」と、近所の人も親戚の人も、悲嘆に暮れていました。
「こうすれば幸せになれる」と思って目標を決め、それに向かって順調に進んでいるときはよいのですが、そんな平凡な生活が突然、破られる時が来ます。
そんな不安定な人生に、何の意味があるのか。
こんなことを繰り返すために、生きているのか。
ひとは、なんのために生きるのか。
平凡な生活のまどろみが破られ、愕然とさせられたとき、この問いに真剣な解答が迫られます。
なぜ生きる。すべての人が必ずぶつかる、この人類永遠の問いの、答えが教えられているのが「仏法」です
●大ベストセラー作家も孤独?
1 月 5, 2010 on 11:37 am | In 社会 | No Comments
村上春樹の最新作『1Q84』は、昨年最も売れた本として話題になりました。
(続編が今年4月に出ることが決まったとか)
さすがノーベル賞候補といわれる大作家ですが、1000万部を突破した『ノルウェイの森』の大ヒットを前に、「切なさ」と「孤独」を感じたと語っています。
「こういうことを言うのが僭越で傲慢であることはわかっているのだが
それでも-僕はどうしてもある種の切なさから逃れることが出来なかった。
なにが切ないのかはよくわからないのだけれど、でもどうしようもなく
切なかった。
どこに行っても自分の場所が見つけられないような気がした。
自分がいろんなものをなくしてしまったような気がした。
本が五十万部売れたとき、僕はもちろん嬉しかった。
自分の書いたものが広い範囲の人々に受け入れられるということが作家として
嬉しくないわけがない。
でも正直なところ、僕は嬉しいという以上にびっくりしてしまった。
僕には五十万という数の人々をうまく想像することが出来なかった。
読者としても想像できなかったし、単なる「人間の数」としても想像できなかった。
十万の人間なら僕にも何とか想像が出来る。
でも五十万ともなると、これはもう無理だ。
そのあとはもっとひどくなった。
百万と百五十万と二百万、それらは僕にとって実体を持たぬただの「巨大な数字」に
すぎなかった。
マスメディアの人々にとってはおそらくその程度の数の人々を扱うことは日常茶飯事
なのだろうと思う。
でも僕には駄目だった。
考えれば考えるほど頭が混乱してきた。
だから考えないようにしようと試みもした。
僕はそれまで十年間小説家として一応飯は食ってきたんだ、数字なんて今更関係
ないさ、売れる売れないは時の運だ、と僕は思おうとした。
しかしそこには簡単に無視することの出来ない空気のようなものが生じていた。
すごく不思議なことなのだけれど、小説が十万部売れているときには、僕は多くの人
に愛され、好まれ、支持されているように感じていた。
でも『ノルウェイの森』を百何十万部も売ったことで、僕は自分がひどく孤独に
なったように感じた。
そして自分が多くの人々に憎まれ嫌われているように感じた。
どうしてだろう。
表面的には何もかもがうまくいるように見えたが、実際にはそれは僕にとっては
精神的に一番きつい時期だった。
いくつか嫌なこと、つまらないこともあったし、それでずいぶん気持ちも冷え込んで
しまった。」 (『遠い太鼓』)
いるのでしょう。
私たちが、心の底で感じている「孤独」や「寂しさ」の根本原因を絶ちきって、
心から「人間に生まれてよかった」と大満足できる「生命の歓喜」を教えられた仏法を、
一人でも多くの人に知って頂きたいと思わずにおれません。
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