覚えておきたい『歎異抄』11の御文
日本三大美文の一つである歎異抄のなかから、とくに覚えておきたい部分を紹介します。
第1章
「『弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり』と信じて『念仏申さん』と思いたつ心の発るとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり。弥陀の本願には老少・善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。その故は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきが故に、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきが故に、と云々」
(第1章は、歎異抄全十八章がおさまる最も重要な章です〉
第2章
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
(「微塵の善もできない親鸞なれば地獄へ堕ちて当然だ」と言われたお言葉)
「親鸞(愚身)が信心におきてはかくの如し」
(「私の信心はこうだ」と言うのは悪い、と言う人のあやまりを正されています。)
第4章
「今生にいかに愛し不便と思うとも、存知のごとく助け難ければ、この慈悲始終なし」
(人間の慈悲は不完全なものだと言われているお言葉です)
第5章
「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したること未だ候わず」
(己のやる善根を亡者(死者)にさしむけて、亡者を助けようとするのを「自力廻向」と言いますが、その自力廻向を破られたお言葉です)
第7章
「念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし、罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなき故に無碍の一道なり、と云々」
(「阿弥陀如来の本願に救い摂られた人は、絶対の幸福になれる」と明言されているお言葉です。)
第12章
「『この法をば信ずる衆生もあり、謗る衆生もあるべし』と仏説きおかせ給いたることなれば、我はすでに信じたてまつる、また人ありて謗るにて『仏説まことなりけり』と知られ候」
(自分の信心を謗る者のあることを、かえって喜ばれたお言葉です)
第13章
「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」
(「縁さえあれば、どんなことでもやる親鸞である」と言われたお言葉です)
第16章
「一向専修の人に於ては、廻心ということただ一度あるべし」
(一念ということは一生涯にただ一度しかないものだ、と教えられたお言葉です)
後序
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ」
(「親鸞一人のための弥陀のご本願であった」と喜ばれたお言葉です)
「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します」
(いつ何がおきるか分からない火宅無常の世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべてのことは、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない。ただ念仏のみがまことなのだ。
聖徳太子が「世間虚仮・唯仏是真」と言われていることを『歎異抄』にはこのように言われています)
